2006年4月13日 (木)

銀座の飲み会

ラスベガスに飛ぶはずが(ブログの記事のなかで。)なかなか飛べません。
そこで今日は銀座で一息入れてまいりましたので、そんな話でお許し下さい。

夕方、画廊のオープニングパーティに顔を出し、私から見たら人生の大先輩の方が殆んどの二次会に出かけてまいりました。
若い作家と飲むのとは可也話題も雰囲気も違いますが、何れにせよ一般の方と飲むのとは趣を異にする感じがします。
年齢を感じさせない若さがあって、物つくりの人独特の世界をそれぞれ持っています。
仕事に定年が無い人達というのは今が旬であるともいえます。
私などには理解できない”生みの苦しみ”が常にあるのかもしれませんが、それを感じさせない楽しい方たちです。

グループ展の方はそれぞれの所属する会とは別の企画展のため異質な絵画が同居しており面白いものです。その中から好きなものとおもしろいものをご紹介します。

一つは佐藤忠弘氏の絵画。今回は抽象より具象にちかいもの。キャンパスの中心に黒い仏像が座しているが両側をパイプらしきもので支えている。しかも後ろ向きである。
作家の現代という時代をとらえる確かな眼が存在する。
不安定な時代であり支えが必要であるという、しかも何処か時代に背をそむけたくなる、見たくないというメタファーの現われだろうか。
メッセージがある面白い作品に仕上がっている。

もう一つは創作画家の前田真里氏。この人の絵は女性が好みそうである。”岩崎千尋のような絵”といえば理解して頂けるだろうか。かわいくて夢がいっぱい詰まっているような絵である。作家その人も、とてもかわいい方で絵に重ねてしまう。一緒に飲んでいる時も楽しくてかわいい方である。最近、とてもお忙しい方で俗に言う売れっ子作家である。大阪、仙台、札幌で、たて続けに三越などで個展を開かれるようである。東京は7月になるようだが、もし興味のある方はこの場でお知らせもするのでぜひ覗いて頂きたい。

感想はこんな所でしょうか。私の下手な主観より映像を載せた方がはるかにいいと思うのですが、ブログの主旨もあり、何といってもご本人達に了解を取っていませんのでお許し下さい。

場所は有楽町マリオンの横、高速の高架橋下にある朝日アートギャラリーです。
日曜までやっていますので銀座にお出かけの方は、ぜひ覗いて見てください。
また、以前からこの場で言っておりますが時間のある方は画廊遊びなどもしてくだされば、また新しい発見があるかもしれません。

ここのところ少し余裕が無いため、ブログの更新も遅れがちです。申し訳有りません。
時間を見つけて書こうとは思っていますので、時々は覗いて頂けますよう宜しくお願い致します。

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2006年4月 6日 (木)

ギャンブル道・困った人々

今日は私のバイト先の仲間達とのことです。随分、昔の話です。
私は時々、都内の某大新聞社の地下のテナントの中にある喫茶店でバイトしていたことがあります。そこは時間がかなり自由が利くことがあり、同じような仲間が集まっていました。私もそこで働く友人に紹介されたのですが、タレント、歌手、役者の卵が働いていました。嘗てそこにいて、今は程ほどに売れてテレビに出ているタレントや歌手もいましたし、そこの経営者であるママさんがこの手の人間が大好きだったからです。
そのビルで働く人達にも特異な目で見られていましたが、兎に角おもしろい人間の集まりでしたので、多くの人が集まってきました。うなぎ屋、床屋、すし屋、そば屋の旦那たちや使用人。そして、そこに中華料理店の中国人までが集まりますと、もうギャンブル゙しかありません。
中には賭け事の嫌いな人もいたはずなんですが、よくもまあ集まったもので何処ででも"おいちょカブ”が始まります。ふだんは身の丈にあったものでしたが、年の暮れになりますと”年末大博打大会”などと銘打って度が過ぎる事にもなります。
最初は掛け金も可愛いものですが、突然、中国人の旦那などが、リミットを無視して張り出しますともうそこは鉄火場です。明け方になる頃には、明日はお正月というのに昨日もらった給料袋が空になっている者までいる始末。

そんな人達ですから、夜仕事が終わってから、カードをしていてもやり足りない時は誰かの家で続きをしようということになります。そんな時は山手線のホームで電車がなかなかこないと誰かがカードを配り始めたりします。通勤客は呆れたような顔をしていますが、周りの目など全く気にせず、ホームの上ででも始めますので、まあ、どうしようもない困った人達でした。私もその中のひとりでしたが。

ある時、その中の何人かで、たまには温泉にでもいこうということになりました。ロマンスカーに乗りますと早速、カードが始まりました。外の景色など必要ありません。それは旅館に着くまで続きます。旅館に着くと、そこはすでに手回しのいい事で誰かが予約してあってマージャンルーム に直行です。
浴衣着る者私服のままの者、マージャンは続きます。普通ですと楽しみな旅館の食事も、部屋食には違いありませんがマージャンをしながらですので、味も何もあったものではありません。
そのまま、翌朝を迎えるのですが、チェックアウトが近づいた時、誰かがまだ全員風呂に入っていない事に気付きました。そこで大急ぎで全員で風呂へ入ったのでした。風呂のせいか、帰りのロマンスカーは全員、バクスイでした。最後まで、富士山のことは忘れていました。
”箱根はどうだった?”と人に聞かれた時、”結構ツキがあってね。”と答えたのを覚えています。莫迦に付ける薬はありません。

この、愛すべき仲間達は今どうしているのでしょうか?そのビルの地下のテナントも今は殆んどありません。時代とともにこのような人種は死滅したのかもしれません。

次回は、ラスベガスなどに飛んで見ることにします。

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2006年4月 1日 (土)

重大な決意

ここに謹んでお知らせさせて頂きます。

今日を持ちまして、このアパートを閉鎖することにしました。

つきましては短い間でしたが、ここに集って頂いた皆様には心より御礼申し上げます。
拙い私のブログに、心温まるコメントを頂いたみなさん、本当に有り難うございました。本来ならば、お一人お一人に御礼とご挨拶をするべきところ、このような形での謝辞となりました事お許し下さい。
これからも、これをご縁に今まで以上の叱咤、激励をいただけます事を心よりお願いする次第です。

          イノセントハウスの皆様へ                             アパート管理人  じゅんのすけ(4月1日)

今日のブログはこんな記事が多いのではと想い書いてみました。

        

 後述・・・・
早速、お叱りの電話が入っております。それ故、ここに反省の弁を追記いたします。反省・・・もっと強烈なものにすればよかった。

                        

      

 

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2006年3月30日 (木)

満開の桜に想う・ある小さな出来事。

桜、好きだ。誰しもが好み賞賛する故に”私は桜が大嫌いだ”と言いたいのだが、理屈抜きに好きなのだ。
淡いピンクの色彩の中に身を置くと、えもいわれぬ恍惚感をあじわう。まして、沸点に達した途端、散り始める危うさのなかには自ら脚色し演じたドラマの幕引きさえ感じる。
今日、歩いていても電車の車窓からも桜の開花が目に附く。
忙しさに追われて”今年はそういえば桜観たかな?”などと思った年もあったが、殆どの場合どこかに花見に出かけていた。京都にいた時は、円山公園のシダレザクラ、嵐山、加茂川べり、仁和寺の遅咲きの桜。そして特に好きだったのは、名所ではなく嵐電(ランデン、京福電鉄北野白梅町線)の鳴滝周辺の桜のトンネル。この時期にはただそれを見たいがために乗り込み何度も往復していた。また、奈良の吉野、山が桜に埋まる風景もわすれられない。
東京も上野公園、千鳥が淵、市谷界隈。なかでも好きなのは、地下鉄丸の内線に乗っていると四谷で僅かながら地上に出る、その瞬間目に飛び込んでくる桜。駅の傍に咲いているなんでもない桜だが、その演出効果によるサプライズは絶大。
数えても切がない。また、名所に限らずいたるところに素晴らしい桜並木がある。学校や近所の庭にも。
人々は皆それぞれの思いを桜に重ね、託すのかもしれない。

私にはこの時期になると、思い出すことがある。忘れられない、小さな、小さな出来事だ。それは今からさかのぼる事、ちょうど十年前ぐらいのことである。

私は当時、都内から郊外のT市に引越してきていた。散歩コースとして多摩川ぞいを歩く事が常で、その日も家人とともに暖かな日差しに誘われ狭い棲家から這い出してきたのだった。
堤防横の道は桜並木が続いていたが、今まさに満開の時を迎えていた。桜の名所でもなく人々が集う公園でもないため宴会目的の人もおらず、道行く人が時々立ち止まって見上げる位のものである。
余りに見事な桜の洪水の中を独り占めできる喜びに浸っていた。
その時ずっと向こうから一台の自転車がやってくるのが見えた。しかし、自転車はなかなか私達の前までやってこない。時々止まっては進み、進んでは止まると言う具合だった。きっと自転車に乗りながら桜を楽しんでいるのだろうくらいにしか思わなかった。
やがて、自転車はすぐ近くまでやってきて止まった。乗っていた男の人は六十代後半に見えた。頭には白いものが多く、細身の体からはどこか穏やかな雰囲気が溢れ出ていた。
私と眼が合った。彼は軽く会釈すると、遠慮がちに胸のポケットから一枚の写真を取り出した。そして、その写真をいとおしむように両手でつつみ上に向けたのだった。その先には満開の桜が咲きほこっていた。
私たちは声を失った。その写真が黒縁の額にはいっていなくても全てを察することは容易だった。その写真の人は女性だったが年齢を重ねた人に見えた。彼の奥さんだろうか。
その人が鬼籍に入っていることはあきらかであり、写真は真新しいものに思えた。
彼は言葉を発してはいなかったが、その写真と会話をしてるかのようだった。彼の表情は笑っているようにも見える。やさしさに溢れている顔だ。
きっと写真の女性は桜が好きだったに違いない。春になって共に見る約束をしていたのだろうか。その約束を果たす事無く逝ってしまったであろう女性の為に、彼は一人、その約束を果しにきたのだろう。
いや・・・・、紛れも無く二人は今、一緒にこの満開の桜を楽しんでいるのだ。彼の想いが伝わらないはずは無い。
どれくらいの時間が流れたのだろう。やがて、彼は私たちの前を通り過ぎていった。しかし、また時々立ち止まるのが見える。きっとまた写真を取り出しているのだろう。
桜の中に浮かぶその後ろ姿は一枚の絵のようにも見えた。
私たちは、その姿が見えなくなるまでその場を動こうとしなかった。横にいる家人の顔が幾分、紅潮して見えたのは桜の色に染まったばかりではなさそうだった。
私は夢を見たのかもしれない。淡い、ピンクの世界の。

桜の季節はいろんな物語を運んでくる。私はそれがどのようなものでも、受け入れることが出来そうに思えた。

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2006年3月25日 (土)

広重そして江戸東京博物館

ギャンブルのことばかり書いていて少し食傷気味ですので話題を変える事にします。
今日は土曜日ですが、誰も居ないことを幸いに事務所に出てきましてPCの前でブログを書き始めています。
昨日の私の一日でも綴ってみます。

珍しく早朝から事務所に出まして、事務仕事を処理しました。というのも今日は時間を創って何とか両国にいこうと決めたからです。私はいつもそうなんですが直前にならないとなかなか行動しない人でして、広重の展覧会の期日が終わりそうだったのです。
両国あたりは仕事で行くこともないものですからなおさら後回しになってしまいます。
午後からやっと江戸東京博物館へ出向いたのでした。
私は初めてだったのですが、外からはその目立つ大きな箱はよく見ていました。正直に言うと”税金の無駄ずかいの箱物をまた役人が創ったんだろう。”としか観ていませんでした。

入ってみると確かにお金を掛けた建造物です。しかし、私は広重よりも博物館の方にむしろ興味を抱き感じるものがあったのです。

広重は江戸東京の文化、歴史、生活の展示物の一角に展示されていただけでした。浮世絵は東海道・・ではなく江戸百景です。作品はその一部で秋、冬のもの30枚くらいです。好きな人には少なすぎる数ですが、私には却ってこのくらいのほうが良く観れて。
私は展覧会のあの膨大な展示物にはいつも閉口しまして、何をみたか判らなくなりますので、事前にプログラムが手に入る時は観るものを限定していくことが多いのです。
中にはこの一点だけが見たいなんて事もある、随分もったいない客でもあります。
広重の版画は北斎とは対照的なもの。北斎の大胆な構図と緻密なデッサンは私をとりこにします。それに比して広重の絵は丁寧に描かれ、なんともいえぬ”癒し”が存在します。どちらも素晴らしいです。
しばらく至福のときを過ごしました。

しかし、それ以上に思い出深いものをこの博物館で感じました。日本の文化というと如何しても京都を思い出しますが、江戸という文化が存在したことを確認しました。
そこには町人文化というエネルギーに溢れたものがあったことをすっかり忘れておりました。展示物も単純な羅列ではなくよく考えられた見せる工夫がしてあります。
江戸、明治、大正、昭和それぞれの時代と生活が理解できるのですが、私にとって衝撃的だったのは昭和は私にとっては身近なものだったのですが、もはや博物館で見聞するものになっていたことです。
確かに、私の子供達が知らない昭和がそこにはたくさんありました。
私と同じように”ショック”を感じたい方はぜひ行ってみてください。意外に楽しめる空間です。外人が多かったのですが、我々こそもっと行くべきかもしれません。

その後は、銀座のシンワの本社によりました。明日のオークションの下見会のためです。もちろん私が明日、数千万、数億のものを落とす予定などあるはずも無いのですが勉強と冷やかしのようなものです。

その後は、都内のある場所で20時から、仕事の打ち合わせに顔を出しました。

これが、私の一日です。元気に遊び、元気に仕事をした、極、稀な?一日でした。
また、私の”ある一日”と題して書かせていただきます。次回はギャンブル道に戻る予定ですが、その前に季節感のある話題を書くことになるやもしれません。

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2006年3月22日 (水)

ギャンブルの道・疾風編

私が東京へ上京することになったきっかけは既に何度かお話している通りです。
周りの人に勧められ、何より自分がその気になってもっと芝居というものを知りたいとおもったのです。”芝居をやるならやはり、東京しかない。”と。そして、運良くある新劇の劇団の研究生試験に受かったことで上京したのでした。

当然、ギャンブルに対する捉え方は京都にいた時とは可也違ったものでした。
ギャンブルとは楽しむものだったのが、お金を稼ぐものに変化していました。劇団などに入っていますと公演近くなるとバイトもできませんし、普段でも時間の制約されたものは不可能です。
地方へ公演など行って東京のアパートに帰ってくると、何ヶ月も部屋代が溜まっており、その支払いのあてなどありません。芝居で得られるお金など、持ち出しの方が多いくらいなんですから。
電気やガスを止められるくらいは驚くことでもありません。
多くの仲間が芝居から去っていきました。残念ながら、情熱だけでは続けられないのが現実なのです。

私が辞めて逃げ出した経緯については何度も書いておりますので省略しますが、私もまた生活費をどうするかは大きな問題でした。
その時には、親に勘当もされておりましたので、金を念出せねばなりません。バイトを探してもすぐ辞めなくてはいけなくなったり、時間の都合の付くものがなかなか見つかりませんでした。
そこで、私はある時期、麻雀で生活費を稼ぎはじめました。時間的には自分の都合でいいのです。後は稼げるかだけでした。
そこで、私は新宿や新橋の麻雀荘にひとりで出入りしはじめました。勿論、見ず知らずの人と打つわけです。お金は何かあったときのために殆んどの持ち金を所持していました。
ただ、けっして危ない店には出入りしませんでしたし、大きなレートのものも避けました。
それでも、いろんな人が声を掛けてきます。
ある時は、少しその筋らしいお兄さんにコンビを組まないかと誘われたこともあります。
判らないかもしれませんが、4人の麻雀で2人以上に組まれると勝ち目はありません。
”とうし”などの合図を送ることでイカサマもできます。
勿論、断わりました。若いので曳きの強さがあり、それだけでなんとか稼いでいました。所詮、大した金額ではありませんが。

それすらも、時間が無く出来なくなってしまいました。
その時の思い出をひとつだけ披露します。ある時、よく行く雀荘でいつものように打っていました。そのときには、時々同じ卓でやることがあった30代の男性と一緒になりました。
実は私にとっては”お得意さん”の一人でした。随分荒い麻雀をする人で、いつも負けていました。
羽振りがよくて、自分は築地の乾物屋の跡取りだとのふれこみでした。
その日も可也勝たせてもらっていました。すると、突然、店に入ってきた数人の男が彼の両側に立ちました。”Yだね。”と呼びかけましたが、その名前は私たちが知っているものではありません。
”違いますよ”と彼はこたえましたが、もう一度、中年の男性が”Yだな。兎に角少し来て。”と有無を言わせずに荷物を整理させて外に連れ出しました。
私たちは急なことで訳がわからなかったのですが、呆然とゲームを放棄して出て行く彼を見送りました。皆でビルのベランダへ出て下を覗きますと、出入り口にはまだ数人の男がそこを固めていたのです。出てきた彼を全員で取り囲むと車に押し込み立ち去ったのでした。
後から判ったのですが、築地の・・・は、真っ赤なうそで、窃盗犯で、盗んだ他人の保険証でサラ金から金を借りまくっていたのです。前科もお持ちで指名手配中でした。
道理で、金使いも荒く投げやりな態度でした。
ただ、残念だったのはあの時、私は可也勝っていたんですがゲーム不成立になってしまったのです。それだけが未だに残念です。

次回は私とギャンブルの友人達との事を書こうかと思います。ギャンブルについて、この話題はネタがあって意外に長続きしそうです。ラッキー。ギャンブルの話題の嫌いな方、もう少し我慢してください。

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2006年3月19日 (日)

ギャンブル道・京都編

ギャンブルの中で話題が多いものというとやはり麻雀になるとおもいます。そこに人間が関わるというのが物語性を持つのでしょう。

私の場合、マージャンも付き合う人によって全く違う世界を見ていたことはお話しました。その中のひとつでメンバーは殆んど学生だったのですが中に大人の女性が入っている集まりがありました。
その方の自宅で週一くらいのわりあいでやるのですが、広い屋敷に一人住まいの方なのです。正確には違うのですが。
彼女の麻雀のうでは確かで、他で大きなレートのものをやっていることは想像できましたが、学生とわあー、わあー。いいながらやるのが楽しかったのだと思います。
おいしい食事も出してもらえるし我々にとっては本当に都合のいい遊び場所でしたが、ひとつだけ(その一つが大変なことなのですが・・。)問題がありました。夕方から始めたゲームが遅くなりますと、時々、男の人が尋ねてくるのです。
その方は迫力のある中年の男性でいつも数人の頑丈そうな男達を従えてやってくるのです。
ここまでで既に話の流れをお判りの人もおられるかもしれません。
そう、女性はこの男性と婚姻外のご関係にあったのです。この男性はその世界の組織の一つのトップの方です。既に私たちとは顔なじみ?でしたので気楽に挨拶をされるのです。私たちも”こんにちわ。”と挨拶を返しますが、顔の強張りは隠せません。
男性は麻雀の中には入ってきませんが、奥さんの後ろで楽しそうに見ていたりします。
”今日、麻雀どうだったの?”と奥さん。
”今日は少しついていたので500ぐらい勝ったかな?”と旦那。
”そう。じゃお金どうする?”
”明日、銀行にいれといてくれるかな?”
そんな会話が後ろから流れてくるのです。500の後ろにつくのは円ではありません。万円です。一晩で数千円が動くだけの麻雀をしている我々には違う世界です。

男性が別の部屋で将棋をしたりすることがあります。その時は女性はお茶を入れに席を立ちます。そのときには、一人お付の男が代打ちに入ってくることがあります。正に現役バリバリ、そんな風体の男が”宜しくお願いいたします。”頭を下げて卓に。
それまで、誠に騒いでうるさい集まりであった我々は急に寡黙な集団になります。口をついて出てくる言葉はいつの間にか丁寧語。
いつもなら、上がったら”メンタンピン、ドラドラ。満貫~。速くテンボウ出せ。この野郎。”という調子なんですが、”ツモ。2千、4千。満貫です。”それ以外はなにもいいません。
通常、相手に当てられると満貫くらいでも”この野郎ー。何で俺からあたるんだ。イカサマしたんだろー。”と大騒ぎなんです。
この時はお付の男が”ロン。ハネ満です。”といって牌を倒しますと、全員が口を揃えて”凄いのをテンパッていたんですね~。流石ですね~。”当てられた本人まで相手を褒める始末。情けないことこの上ないのです。
よそ行きの麻雀は女性が帰ってくるまで続くのでした。

こんな事もあったんです。実はこの女性は競馬のノミ屋もやっていたのです。麻雀のときににも電話が入り、本人や若い衆が出ていました。
いくらくらいのお金が動いていたのかはわかりません。ただ、この女性に教えられたことがあります。競馬で、このレースは絶対という情報が時々あるそうです。その時、ある筋から連絡が来るらしいのです。その方たちがその情報を何処から得てどう使うのかはわかりません。
私がある時、”確実な情報の時は教えてよ。”といいますと、”いいよ。そのかわり、私のところでは買わんといてよ。”(私は今までもノミ屋からは馬券は買ったことはありません。)その後、あるときその情報を教えてもらった事がありました。
私は半信半疑でもあったのか。買ってはいけないという何かがはたらいたのか。結局、その馬券は買いませんでした。
翌日、新聞で確認しました。結果がどうであったか?・・・・ここではお応えしません。ご想像どうりと言っておきます。いろんな世界があります。偶然だったかもしれませんが、私にはわかりません。
あの時、買わなくてよかったと今でも思っています。でも、少し後悔も。いや、いや、きっと碌な事にならない。

もう二十数年前の物語です。あの頃に縁のあった人達がその後どうなったか、今は知るすべもありません。
次回は、麻雀・東京編です。(この物語は全てフィクションです。)

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2006年3月16日 (木)

さすらいのギャンブラー・青春編

私の今までの人生で京都で過ごした学生時代は自分にとっての宝物です。
京都という町が観光客の町としての表の顔を持つとすると、それ以上に学生の町として、これ程の環境を備えた街は何処にもありません。
特に多感な青春時代を過ごすわけですから、その後の人生を大きく左右したと思います。
勿論、その後の結果は人様々で、私のように余り褒められたものでない人もいますが、同期には随分と偉くなった奴もいると風の便りに聞きます。
私のように遊んでばかりいたものは当然の結果なのですが、だからといって後悔しているかというと残念ながら、全くそんなことは無く人それぞれであると殆んど”悟り”に近いものを会得したのです。

当然、遊んでばかりいたわけですが、私には二つの顔がありました。
ひとつは学生として仲間と遊ぶもの、もう一つは撮影所とかバイトとかたくさんしていましたので自分よりずっと年上の大人の世界の付き合いです。
マージャンひとつにしても学生相手の安いレートのものもしますが大人相手の可也高いものまで様々でした。

手前味噌になりますが学生相手では私のマージャンの腕はレベルが違うものでした。
皆さんの中でマージャンをされる方はよく判ると思いますが、所詮運が大きく勝負を左右するので、どんな上手い人でも凄く下手な人にさえ負けてしまいます。将棋や囲碁はプロが素人に負けることは絶対にありません。しかし、マージャンはプロがド素人に平気で負けることがあります。
ただし、それも回数を重ねますと、はっきりとした実力差が出てくるのです。
私は勝負としての物足りなさもあり、夜のまちで大人を相手に打つこと多くなったのです。
ただ意外なことに危機管理能力がありますので”危険な方達”と打つことや、法外なレートは避けていました。
当時の私はいわゆる”学生やくざ”といわれるようなもので、学生に相応しくなく夜の祇園あたりのクラブにも頻繁に出没していました。風体は学生そのものですので却って祇園あたりではチヤホヤされてお金も払わないで飲んでいたのです。いろんな人生を教えて頂きましたが、そこらあたりの話題はまた別の機会に致します。

私の学生生活は、成績優秀なものですから大学の正門前までは行きます。しかし、そこで人数が四人になると、まわれー右。真面目な友人に四人分の”代返”を頼むと中国語の勉強に向かうのでした。
当時、下宿に帰ると朝から晩までマージャン牌を触っている奴がいまして、何をしているのか聞きますと”ツバメ返しの練習をしている”と真顔で答えるのです。
つまりイカサマの練習をしているのです。私の時代は阿佐田哲也の本は必読書(色川武人としての彼の作品ではなく)でしたので、そんなことを真剣にするものまでいたのです。
勉強もしないでこんなことばかりしている莫迦ばかりでしたが、イカサマの練習ばかりしていた彼がどうなったかは知りません。意外に上級職でも受かって官僚にでもなったかもしれません。遊んでばかりいましたが、勉強する時の集中力もまた凄まじいものがありましたので。
私はもちろん遊ぶだけだったわけです。ギャンブルに関しては、その他、競艇のエンジン音に痺れ、競馬は淀(京都競馬場)にクラッシックを見に行く意外は週末は祇園にある場外売り場に入り浸り、競輪開催日には向町競輪まで阪急電車ででかけるのでした。
マージャンに関してはいろんなことがありましたので、マージャンというカテゴリーの中でお話をまたしたいと思います。

私のギャンブル道は、まだ始まったばかりです。
でも、こんな話、皆さんは本当は面白いのだろうか?せめて読み物としてもう少し面白いものに出来たらいいんですが。面白くない方はもう少しだけ我慢してください。
宜しくお願いいたします。

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2006年3月13日 (月)

さすらいのギャンブラー・立志編

私のギャンブル修行の上で学生時代が全ての出発点と言っても過言ではありません。
それは当然、大学に入ってからのものが殆どです。
そういう意味で中学、高校時代はかわいいもので、賭け事は知らなかったともいえます。わたしの中、高校時代は目立たないおとなしい生徒でしたし、学業もまた目立たない(つまり、出来の悪い生徒)それでいて先生泣かせの子供でした。

賭け事と言ったらたいしたことはしていません。中学の時、学校で大流行したもので”パッパ”といわれるものがありました。ルールは簡単で机の上に自分のお金(コイン・1円)を置き口で吹いて相手のコインの上に載せれれば下になったものが貰えるものでした。唾をぱっぱ、ぱっぱと吐くようにコインを動かす所から付いた名前です。
一対一から複数でも戦えます。
これが学校中に大流行。休み時間や放課後には男子はみんな”ぱっぱ、ぱっぱ”。
まことに汚い学校だったわけです。学級委員も不良も皆仲良くコミニュケーション。
ところが、いいことばかりではありません。当然、賭け事は子供と言えどもエスカレートしていきます。お金が1円の頃は、まだかわいかった。コインは10円になり100円になっていきました。時としては1000円札を折りたたんでやる者まで現れた。
私の成績は?と言いますと、話の流れを理解されておられる皆さんが思われるとおりです。そう、強かったんです。
1日の稼ぎ?が数百円から数千円です。”横綱”などとおだてられ、その気になっていたのも束の間、学校中の大問題に成り全校集会まで開かれるようになりました。
それからの私、ご想像のとおりです。こういうものの結末は決まっています。一番勝っていた奴は先生にチクラレ、終いには首謀者にされ、校長にも怒られ、親は呼び出し。散々でした。あぶら性でもないのに、こってりあぶらを絞られて。
それでも、停学にもならなかったのは、当時は平和でしたし、悪意などは無いことは明らかでしたからと言っておきます。
しかし、おかげで母親には泣かれるは、父親からは”他の兄弟は学校から誉められる事ばかりだが、お前だけは本当に情けない”と三行半を頂く始末でした。

これが、中学時代の輝かしい出来事です。その他、カードや花札でも中、高時代は活躍しましたがページが無くなってきましたのでやめます。しかし、ワルになることも不良グループに入る事もありませんでした。
第一、彼らは私を誘ってくれなかったです。何故だか判りませんが。むしろ、彼らにさえ避けられていたようです。

次回は大学時代に進んでいきます。賭け事のほとんどはここで覚えたのは、他の人と同じでしょう。

最後に、小さなお知らせ。
私には関係の無いどうでもいいことなんだけど、友人が喜んでいますので。
先日、2月21日のブログに書いたことに繋がるんですが、ビジネスの友人のK氏の甥っ子がフィギアスケートのジュニア・世界選手権で優勝しました。本日の新聞にも大きく載っています。家族の事も書いてあり、私が真実を言っていた事も証明されています。
日頃、私の言葉を信用しない悪友達も参ったでしょう。でも、私はうそつきでもいいんですけど。その方がおもしろいから。

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2006年3月10日 (金)

画廊でチョッとひとやすみ

昨日、今日とココログ(nifty)が全く機能せず更新しようとやる気満々だったのに、気分を削がれてしまいました。と、都合の良い言い訳が出来たのですが。
ココログは本当にトラブルが多く謝罪ばかりです。皆さんの使っておられるものはどうでしょうか。有料でこうなんですから、他に乗り換えた方が良いのかもしれません。

今日は予定を変えさせてください。次回は続編に戻ります。昨日、午後より知人の立体の作家さんの個展に顔を出すために銀座に立ち寄りました。
ここを覗いて下さる方には私などより美術全般に造詣の深い方もおられますし、画廊などに良くあしを運ばれる方も。
ただ、殆んどの方は、画廊というとなぜか入りにくい場所というイメージをお持ちではないでしょうか。確かに気楽に入るというより気臥まえてしまう空間かもしれません。
ですが、勿体無いですよ。私に言わせると。
時々面白いものに出会いますし、思いがけず心の琴線に触れることもあるかもしれません。第一、ただですよ。無理やり買わせられることはまずありません。
店のひとの目が気になる?むしろ店にとっては、見るだけでもありがたいお客様なんです。もし、感じの悪い店などあったら、そんな店は碌なものを扱っていないと思います。(値段ではなく作品の質で。)
気軽に覗いてみてください。ぜひお勧めしたい銀座の遊び方です。

というわけで、ついでに何軒か覗いてきました。画廊の数がかなり減ったといってもそこは銀座、随分いろんな作品に巡り会えます。版画や写真展なども面白いものがありました。
最後に目的の先生の個展に顔を出しました。

この方は立体の作家さんといいましたが、一貫したテーマは”空間芸術”です。
演劇や映画が時間の造形であるのに対して美術作品は空間的な表現であり、空間を造形することといわれます。その意味で紛れも無く美術作品です。
”木”などを題材にされ様々な、空間を創り出します。
海外でも積極的に活動されています。
今回の作品は今までと違った色合いで、素人目にはあまりにもシンプルでした。”光と影”あるいは”可視的と不可視的のもの”というキーワードが浮かびました。

このブログに遊びに来てくださる方の中には関西や東海にお住まいの方も居られますが東京近辺の方はぜひ銀座にお出かけの折にはお立ち寄りください。
作家は丁寧な方ですので、ぜひ声を掛けて話をしてみてください。
私の紹介などは必要ありませんが、望まれる場合は私にいってくだされば作家には伝わるようにしておきます。

また、この個展に都合悪い方などは、お住まいのお近くの画廊にぜひ一度飛び込んでみてください。
新しい発見があるかもしれません。私のささやかなお願いです。

最後に今回の作家の個展の告知をしておきます。

”加賀谷武展”  場所・・シロタ画廊(銀座・松坂屋の裏の筋の通り、ヤマハの真裏)
3572-7971  3月6日~18日まで  http://www.gaden.jp/shirota.html

上記HPでご確認下さい。
それから、万が一、作品を見て”自分の部屋にもほしいなあー”などと思われる方がおられましたら、私のHPにメールを下さい。値段、その他、ご相談させて頂きます。
勿論、個展で購買を勧められることは絶対にありませんので、ご安心下さい。
ご友人などお誘いあわせの上、気軽に見にいって頂きたいと思います。
宜しくお願いいたします。

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2006年3月 6日 (月)

さすらいのギャンブラー・小学生編

ギャンブルの是非をここで論ずることはやめます。私はその道を極めたわけではありませんが、人によって毒にも薬にもなると思います。そういう意味ではムキ、不向きがあります。先人達の言葉や物の本によるところ、全ては”止めどき”にあることは間違いなさそうです。
私などが思うには何事にもセンスが必要であり賭け事にも大事な要素だと感じます。センスとは判断力の正確さなどを言うのでしょうが。
私などが兎に角、面白いと思うのは賭け事はその人の性格がじつによく出る事です。君子が豹変する事などあたりまえ、人間ウオッチには最高。そういう私も醜態を晒していた一人かもしれません。

私は子供の頃、何度か迷子になった記憶があるのです。その中で最初の場所とはどこであるかといいますと、”ジャンジャンジャン”と鐘がなる所、そう競輪場です。
私は、時々、父親につれられ来ていたのです。ただ、一言父親の名誉のために申し上げますと、彼はけっして賭け事にのめりこむ人でなく、むしろ綺麗な遊び方をする人でした。手前味噌で申し訳ありませんが、父親はインテリでしたし競輪場でもなぜか周りのおじさん達と格好が違い、父親だけが背広にネクタイをしめていたのを覚えています。
いずれにせよ、私の周りにはすばらしい?環境が整っていたのです。
私の小学生時代、賭け事いえるものの代表は駄菓子屋のくじです。これが私の小学生時代の最大の関心事であり、毎日が駄菓子屋のおばちゃんとの”勝負”でした。
私の田舎町のことはこのブログに何度か書いています。私の家は平坦な土地である駅の傍でしたが学校は坂の上にありました。ただその坂は半端ではなく、要塞のような街にむかいひたすら3キロあまり上っていきます。
片道一時間あまりのその行程に敵の家は4件ありました。(最近このブログの住人の方から、駄菓子やというキーワードを思い出させて頂き、先日帰省した折、思い出をたどり探したところ全て廃業していました。)
その中でも坂の上り口にかかる十三石橋の袂の二件が主戦場でした。
駄菓子屋といってもお菓子にはさほどの興味はなく、くじを引いた結果えられるプラモデルやおもちゃが目的でした。くじといってもいろいろのやりかたがありまして、たばねた紙を引っ張るとあたりの等級が書いてあったり、破ると出てくるもの、舐めると出てくるものなど様々です。
景品がプラモデルなどですと私達の気合も大変なものでした。それが不思議なんですが一等のプラモがなかなかでないんです。くじも少なくなってくると学校にいても心配で心配で、勉強どころでありません。
帰りにおばちゃんの店に飛んでいくのですが残っているのを確認して一安心。
ある時、悪友に見張り番をさせ、家に帰って全財産を持って店に駆けつけました。そこで残っている、くじ全てを買い占めました。皆の前で勝ち誇った自分の姿を思い浮かべひとつずつ引いていきます。
ところがなかなか一等がでないんです。さいごの一枚、皆の期待が集まるその一枚を引いた時そこにかかれていた文字は今でも忘れません。それは鮮やかな赤で書かれていました。
”四等”でした。私と兄弟分たちの唖然とした顔を見たおばちゃんの一言。
”あたり、なかったね。”
あの時から、私の人間不信が始まったといっても過言ではありません。数十年の時を経た今でも、昨日の事のように思い出されます。

その後、この話には後日談があります。わたしのものにならなかった、あのプラモはその店のおもちゃ売り場で500円で売られていました。”ぼくのプラモが・・・”私は小学生にして早くも世の中の不条理を充分に教えられたのでした。
その後、私達とおばちゃんの仁義なき戦いがしばらく繰り広げられたことはご想像にお任せします。

駄菓子やの籤は正しくギャンブルの原点だと思います。
この次元の話が続きそうです。とても付き合いきれないと思われる方は少し時間をおいてから覗いて下さい。
宜しくお願いします。
次回は中学、高校、大学編へ突入します。

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2006年3月 3日 (金)

さすらいのギャンブラー

皆さん、こんにちわ。お元気ですか。如何お過ごしですか?それでは、また。
挨拶だけの記事の日があってもいいのに・・・・。
何でもいいのでコメント下さい。なんて書けたらと思いますが、創造力の貧困さを
感じる日々です。
トリノも終わりましたね。今度はワールドカップですが、それまで繋ぎの記事を。美術、演劇、文学、
ネタはあっても文章に纏らないので、・・・・・(この間、パソコンのまえで長い沈黙。)・・・・・・

決めました。私のギャンブル人生について書かせていただきます。
私の人生そのものがギャンブルであるともいえますが、その事を書き出すと際限がありませんので
賭け事(マージャン、競馬、競輪、競艇、パチンコ、など)の思い出の中から幾つか書いてみます。

私も人並みあるいはそれ以上に賭け事に夢中になった時期がありました。ましたという過去形は
今は卒業といったら格好いいですが、全くやりませんし、興味も湧かないのです。
女性の方から見たら男とはなんと馬鹿な人種だと思うでしょうが、今から思うと賭け事に夢中の
頃が懐かしくできることならあの頃に戻りたいとさえ。

当然、失敗に関しては枚挙に遑がありません。ここに書けない事も多くあります。
書けない事の方が面白いのはあたりまえですが、やはり、書きません。あしからず。
今回は数回にわけて書いてみます。脱線して、賭け事というテーマから外れる事も考えられますが
お時間の頂ける方はお付き合い下さい。
初回は、”ギャンブラー・小学生編”ということで、私の原点に迫ります。

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2006年2月27日 (月)

強いものは美しい。

こんばんわ。今日でトリノも終わりましたね。
皆さんも寝不足気味ではありませんか。私はそろそろ嫌な花粉症もやってきたことも重なり体調は・・・・・。
私はこの時期ほとんど使いものにならないのです。もともとが偏頭痛持ちなんですが、花粉症もあり、毎日が酩酊状態。仕事をしない理由には事欠かないのでそれだけはうれしいのですが。
当然、ブログも書くことが考えられませんのでお許し下さい。ということで、トリノを。

私は冬のオリンピックには本来あまり肯定的ではない人です。欧米などの先進国に限られた一部の国だけのものが、オリンピックに相応しいのかと思ってしまいます。
ですが、実際は見るとやはり見入ってしまいます。
荒川女史などは少々食傷気味なくらい何度でも見てしまいます。
以前、陸上の三段跳びの金メダリストの織田幹夫氏が”強いものは美しい”と言いましたが彼女は本当に美しかったです。
素直に、感動を有り難うとテレビにむかっていいました。ガラにもなく。

それから、アルペンのスラロームは素晴らしかった。私は実は大のスキーマニアです。最近は全くのご無沙汰ですが、シーズンには週末は必ずスキー場にいくことを何年も続けていました。寒いのは大嫌いですが、それも苦にならないくらい魅力があります。
それゆえ、応援にも力が入ったのですが、旗門に飛び込んで成功するも失敗するも紙一重ですね。
単純にメダルの数より花形の競技で欧米人と堂々と戦ってくれたのが嬉しかったのです。
私はいろんな職種があっていいと思う人ですし、まして私たちに感動を与えてくれる人は大いに国が援助するべきだと考えていますが異論のある方もおられるでしょうね。

ただ、カタチはいろいろあるでしょうが私もまた人に感動を与えられる表現者で有りたいものだと思わせてくれたトリノではありました。

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2006年2月21日 (火)

今夜もトリノ

こんばんわ。なかなか更新しない私のブログに痺れをきらした悪友が事務所に電話を掛けて来ます。コメントは書かないでいつも読んで笑っているクチです。いつも”忙しくて休みも執れない”などといっていますが、本当に仕事しているのでしょうか。
私などからみたらビジネスの最前線にいるエーリート達ですが、どうせ碌な事をしていないと思われます。”世間を欺くことだけはするなよ。”と言ってやりましたが、組織の中では・・・。
電話の後、久しぶりに気分がよくなりました。いつも仕事の事でつまらない問題ばかり抱えています。友人達が羨ましく思えることばかりですが、唯一私には何事にも自分で決断を下せる立場があります。明日どうなるかすら判らない零細企業なんですが。

自分でいうのもなんですが京都で過ごした学生時代から人並み以上にいろんな経験をしてきました。多くの方に迷惑を掛け、世話になりっぱなしでしたが教えられことが一つあります。
それは、正直に生きることです。人に対して、自分に対して。
私は性善説を信じているわけではありませんし、騙そうとおもって近寄ってくる人もいることも知っていますが、愚直でもこれを通せる人が最終的に目的を達することができると信じています。

皆さんにも素晴らしい支えとなる信念があると思いますが、私も恥ずかしながら、表現者であり続けることと、感動することを忘れない気持ちを常に持ち続けたいと思っています。
話が理屈っぽくなってしまいました。すいません。そうだトリノのことを書くはずだった。

話題がそれてしまいましたが、ひとつだけ内輪話を。私の得意分野ですが、今話題のフィギアスケートに関して。
私のビジネスのパートナーであるK氏は名古屋出身ですが、この地が日本のスケートの中心であることは皆さんご存知だと思います。彼のお父さんはこの世界の重鎮だった方らしいのですが家族全員、一流選手になりました。
友人のお兄さんはグルノーブルオリンピックの日本代表ですし、お姉さんは日本のトップ選手であり、現在も甥っ子が国体で優勝しているスケート一家です。
当然、兄弟たちは指導者になっていますが、お姉さんは2,3カ月前、週刊誌を賑わせました。
最近有名なA選手を子供の頃から少し前まで育てた人なんですが、”Aは4回転を飛べていない”などと発言して物議を醸しました。
私が採点競技のことを前回書いたのも偶然ではないのですが、独特の世界であるようです。友人の話をここで書けないのは残念ですが(抗議の電話がきそうですが、掛けて来てもダメです。)すべて、伝聞ですので私の言葉として言えることではありません。

私などは友人の存在もありフィギアースケートなどは本当に応援しています。
何か焦点の定まらない文章を書いてしまいました。次回は何を書こうか、どなたかアイデアを・・・・・・。

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2006年2月15日 (水)

トリノオリンピックを見て考えた。

前回予告の記事を書こう(芝居について)としていたら、なかなかキー゙が打てません。京都の学生演劇、撮影所の役者、東京での新劇の劇団員など描ける話題には事欠かないのですが、却って何から書けばいいのか纏らないのです。そこで今回は、流行の話題に乗ることに致します。
皆さんもオリンピック見ていますか。日頃、斜に構える私もこの時ばかりは、俄かナチュラリストになり、真夜中のテレビで一人で一喜一憂しています。
ただ、最近は随分冷静に見ております。日本を応援する事に疲れ、もはや結果などにこだわるまい、素晴らしい物を見れるのであれば外国の選手でも応援しようなどと殆ど開き直りぎみです。
まして、私くらいの達人?になりますと、結果よりも選手の表情を見ているのが楽しいのです。
昨日のカーリングなど感想を」書けといわれれば、戦略を要し心理戦が絡む非常に興味深いゲーム性の高い試合を見た、と。
では、ココロの内を開けといわれると、ロシアと日本の選手が”綺麗だなあー”。

ここで、テレビを見ていて感じた真面目な感想を一つ。
スポーツの定義にも関わってきそうですが、スポーツの結果は一対一の勝敗か若しくは記録という数字に表れる時間ではっきりと順位が決まる。それが公平であり、非情でもあっても誰もを納得させてくれる。
ところが、そうでないものがある。
採点種目である。フリースタイルスキー、ハーフパイプ、フィギィアースケートなどの存在がそれである。これを見ていて他のものと同じオリンピックの種目には思えない。除外せよといっているのではない。私には寧ろ大変興味あるものである。
見せる競技であるからだ。ただ、結果が見ただけで明らかなものと同列に考えられない。
どんなに専門家が採点評価するといっても所詮、主観的なものである。これがスポーツの持つ公平性に対して疑問を抱くのである。
まして、フィギィアースケートなどは採点に芸術点なるものがある。何かおかしくありませんか?そう、芸術には絶対に点数はつかないものだから。芸術はどれ一つとして比較などできるはずもない。その出来や、テクニックに評価が高いものもあっても一つ一つがスコアーにはできない。
また、バレー、舞踊、ミュージカルなどは大変な肉体訓練を必要とするが、一般的にスポーツとは言わない。芸術というカテゴリーに属する。

また、天邪鬼が出たといわれそうだが、テレビをみながら思いました。
でも、きっとテレビを見て応援するんだろうなー。安藤美姫、荒川静香、村主章枝を。できることなら真央ちゃんが見たかったとまだ諦められません。


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2006年2月 9日 (木)

美術家の集う所 その2

今回はその2ということで書かせていただきます。最近、銀座の比較的有名な貸し画廊で、
ある地方在住の油絵の作家さんの企画展を手伝いました。

私のお世話になっている画家さんのお弟子さんですが、頼まれたこともあり、また以前より存じ上げていたので、お手伝いすることにしました。
お弟子さんといっても、私などより大先輩の年齢の方であり、地元の画家さんの協会の重鎮です。
この方は、地方の方に珍しく、銀座で定期的に個展を開いておられる恵まれた方というか、お金を掛けることができる方です。それでも、今回は今までよりは可也お金の掛かったものになりました。

皆さんは個展を開く費用がいくらくらい掛かるご興味あるかもしれません。中には、デパートや画廊の丸抱えというものもありますが、稀な恵まれたものですし、その場合は主催者のシェアーも当然大きくなります。費用はもちろんピンからキリまでですが、画廊代、展示絵画の配送に掛かる宅配代、パンフレットなどの印刷代、オープニングのデリバリー代そして、美術評論家の先生の原稿代、プレスリリースなどの経費等‥。
この時の総予算は新車一台分ぐらいとお伝えしておきます。
作家にとっては大変な負担でありますし、こんなにお金を懸けれる人はホンの一部の人だと思います。私の知っている狭い範囲ではありますが。

この時の私の役目は、画廊との連絡役、プレスリリースの手配、オープニングのパーティの企画そして司会などです。しかし、殆んどは力仕事要員です。初日前日の取り付けを作家と二人ですることや、当日のパーティ準備などの土方仕事など、周りの方のお年を考えると私はこれでも若手ですので何でもやるわけです。

当日のパーティは平日の夕方でしたので、招待のお客さんの入りが心配でした。画家さんが地方の方ですので田舎から来る人は限られます。そこで、大御所の方々にお願いして関係者の方に声をかけて頂いたお蔭で4,50人の方に来ていただいたのです。
ただ、経験上、年齢層が可也高くなることはわかっていましたので、すこし仕掛けをしました。私の友人達は兎に角忙しい年代ですが、無理を言ってきてもらったのが会計事務所の若い人達、銀行員の友人の部下など。

ただ、これは素晴らしい効果があります。先生達は若い人たちと話が弾み、場は明るくなります。そして、何より無理に来てくれた本人達が、普段なかなか経験できないことに接して大変満足して帰ってくれることです。

この日は、パフォーマンスに予定していたバイオリンが急遽だめになることはありましたが、名の知れた評論家をゲストに呼べたり、作家の友人のスポーツ界の偉い人がきて盛り上げてくれたり、いろんな人の協力で主催者の作家はご満悦ではありました。

パーティでどんなことがあるかというと、招待しない人が飲み食いしているときがあります。いろんな人がいるものです。バブルの頃の比べると、そのような人も減ったと思いますが、このような人は大した問題ではありません。
置き引きやご祝儀泥棒には気をつけなければなりませんが、そんな人すら少なくなったかもしれません、。
むしろ、画廊が嫌がるのは、前回も言ったことですが、他の貸し画廊のオーナーなどが入って作家達に暗に営業を懸ける事です。また、美術雑誌関係の名簿のセールスの人が何気なくお客さんに混じって来たりします。
私などは今の状況を考えると、一概に非難はできないと思っています。

何れにせよ、このような場面が銀座あたりのオープニングの一例です。ただ、これは恵まれている個展のオープニングでして、私の若い友人達は、やりたくても出来ないのが現状です。

この日は、私は平均年齢六十数歳の作家さんたちに二次会、三次会と連れ回され、”君の慰安だ。”といわれながら、すべて幹事をやらされ、送り届ける役目を頂いたことを最後に付け加えておきます。

次回は、美術以外の話題、例えば芝居の事でも書かせていただこうと思いますが・・・・。

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2006年2月 6日 (月)

フィガロの結婚

皆さん、こんばんわ。今日は前回のテーマの”その2”を書くはずだったんですが、少しは時流に乗ったことも書こうかと思いまして。またまた脱線してすみません。

最近は、先日が生誕250年ということもあり、モーツァルトの話題が何かと出てきます。
私も少しは吹奏楽を齧ったので(すぐにジャズに奔ったのですが。)この人の音楽は好きです。クラッシック好きの人達の造詣の深いことといったら、その知識に感心してしまいます。
私も何度かはオーケストラも聴きました。N響も、ヨーロッパでも、NYではリンカーンセンターの傍に棲んでいたこともありますのでメトロポリタンのオケは安いリハーサルチケットで聞きにいっていました。
その、芸術性は素人の私でも感動を覚えたものです。ただ、それも随分ご無沙汰でして、家でCDすら聞かないこの頃です。
ただ、モーツァルトは音楽もそうですが、映画の”アマディウス”が忘れられず、その破天荒な人生に魅力を感じてしまいます。

たまたま、チケットがあったので昨日、オペラの”フィガロの結婚”を小学生の娘と二人で見に行きました。彼女に内容が理解できたかどうかはわかりませんが、ある種の琴線には触れたようでした。
実は”フィガロの結婚”を見るのは4度目でしょうか。今までに見たものと比較することも無意味なことでした。巨額の資金でつくられているものではありませんし、観劇代もゼロが1つ違っていました。ただ、声楽家の素晴らしさと頑張りは充分伝わってきました。
声楽家の歌声を聴くと本当に感動します。
”人間の声というのは、こんなにも素晴らしいものなんだ。声が楽器に昇華している。”
それを心底感じることが出来るのです。

楽しい感動です。そして感じるのはモーツァルトの音楽はどれも素晴らしく芝居を盛り上げるのです。”フィガロ・・。”は最もポピュラーな喜劇のオペラです。オペラなどというと二の足を踏む男の人も多いと思いますが、ここに縁あってお話できている皆さんには一度観て頂きたいと思います。

モーツァルトの音楽の素晴らしさと、オペラとオーケストラに、そして何よりも”人間の極限まで鍛えられた声”に感動することをお約束します。
私のような知識の無いものでもそうなんですから。

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2006年2月 2日 (木)

美術家の集う所 その1

現在の美術家をめぐる状況を私が知る限りの事を少しばかりお話します。
彼らがその作品を発表したり、売買を委託あるいは買い上げてもらう”画廊”というものの存在があります。
バブルが破綻してからの美術を取り巻く状況をご存知の方も多いと思いますが、銀座を中心に多くの店が閉鎖、倒産し、古くからの有名な店くらいしか売買画廊は残っていないといわれています。それすらも大変な苦戦をしいられているのです。
残っている画廊というのは殆んどが貸し画廊といわれるものですが、それすらもある地域では全滅して店がラーメン屋さんになったと聞きます。都内の一等地ですが、俄かに信じられず見に行きました。全てが作り変えられたということはありませんが、確かに様変わりしており、貸し画廊も展示物がなく開店休業のような店舗もありました。特に銀座ですが、個展のオープニングパーティに顔を出しますと、見知らぬ人から名刺を頂くことが多く、見ると貸し画廊のオーナーで在ったりします。本来、その画廊からあまり歓迎される存在ではないのですが、なりふり構わぬ営業活動も仕方ないともいえます。
貸し画廊も銀座の一部を除きなかなか埋まらないようです。展覧会などは1週間単位ですが、銀座などはやはり高くて若手の作家にはとても手が出ません。
若い人は、少し街中から離れた所で、しかも個展をする費用は負担が大きいためグループ展が多く、それも2,3年に一度という状態です。なかには恵まれた人もいるのかもしれませんが。
創作意欲がありながら、その発表方法に苦労しているのです。

若手の展覧会に顔を出すことも多いのですが、客層も若く、それなりに楽しい初日だったりします。オープニングは持ち寄ったビールやワインぐらいしかありませんが、飲み物がでるだけましなパーティともいえます。それすらしないものも多いですし(勿論、目的はパーティをする事ではなく、また少しでも出資を抑えるためには、不要なものともいえます。)、なかには、会費を集め飲み物とコンサートを提供するオープニングもあります。知人の演奏家に場所を提供しお互いに助け合うという一面もあるのでしょうが。

私はお金を取ってコンサ-トをするのは考えものだと思う人ではあるのですが。下手でも、作家自身や関係者が手作りのパフォーマンスをお客さんにみせて、楽しんでもらうべきだと思います。
なかなか、日本ではまだここまではいっていませんが、作家にサービスマンとしての意識が薄いか、もしくは作品が作家の主張そのものであるため、そんな事は必要ないと思っているのか。型どうりの手順で終わるのが殆んどでしょう。
お金を掛けずにできることは、いろいろあるのですが。ただ、彼らにそんな要求をするのも酷な状況であることも事実です。

私が今後、この関係の仕事を続け、発展することができたら、作家の作品をより多くの人に知らせることはもちろん、個展なども作家と共に楽しみたいと思います。前途は多難ですけど。

次回は、私が最近関わった、おそらく極普通の個展のオープニングの様子などをレポートいたします。

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2006年1月29日 (日)

東京の休日(ローマの休日のようにはいきません。)

今日は私の休日でした。事務所は土曜日は休みなのですが、中小零細にとっては休みは死を意味するようなもの。何かしら用事があるというか、なるべく自宅にいたくないというか、兎に角、山奥の棲家から片道2時間かけて渋谷の事務所に出てきます。

出掛けに、厭味の一つも言われるかと思いましたが、実はこう見えても普段は涙ぐましい努力はしていますので(中身についてはひかえさせて頂きます。)明るく?送り出していただきました。

午後から事務所に出て、先ず銀座の画廊に知人の画家が個展を開いていたので顔を出しました。私にはよく解らない抽象ですが、休日だからか、あるいは作家の人脈からか、お客さんはそこそこ入っていました。
その後、これも半分義理で、飯田橋の画廊でやっている若手の版画家の3人展に顔を出しました。これまた抽象です。作家が好きでやっているのだから私が文句を言う筋ではないけれど、価格を付けているのなら売ることも考えたらといいたくなる。
技術は素晴らしと思うけど、このてのものは溢れているし、素人の意見を言わせてもらえばあなたのアイディンティティーは、個性はどこにあるのですかと聞きたくなる。
”金のために魂は売らない”というくらいに売ることを度外視しているものであれば却って魅力的ではありますが。

その後、5時から赤坂見附のプリンスホテルでのシンワ・アートオークションに予約していたので顔を出しました。私などは殆んど冷やかしですが、数千万円から数億まで動くオークションです。流石にジーパンではいけない雰囲気ですし、年齢的にみて私などは若造の部類です。このオークションの雰囲気については私の過去のブログの記事に書いたものがありますので興味のある方は読んでみてください。
参加してみたい方は一度私の事務所にメールをいただけたらと思います。一度経験してみるのも面白いと思いますが、ひとつだけ問題があります。
私などは、いつもそうなのですが一週間くらい働くのが莫迦らしいなるくらい自己嫌悪になります。それを経験したい方はぜひどうぞ。

赤プリのそれも2時間で終わり、その後長い時間を浪費するべく我が棲家へ帰ってまいりました。休みなのか、仕事なのかわからない一日でした。
そういえば、今回は、最近の銀座での画廊のオープニングを描く予定でしたのに、自分の休日の一日になってしまいました。すみませんでした。
次回は、しっかり描きます。・・・・・描けるといいなあー。

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2006年1月24日 (火)

ソーホーの座標軸

前回イーストビィレッジのコンテンポラリーアートの作家達のことを描きましたが、今日は私の関係する企画画廊の平素のオープニングパーティを描いてみようと思います。刺激的なものを期待される方には事前にお許しいただきたいと思います。

その画廊はワシントンスクエアーから南に1ブロック下った、大通りに面した雑居ビルの3階にあった。夕方になり招いた客が次々とやってきた。
今日の作家の作品であるアクリル樹脂を吹き付けた立体を壁づたいの四方に配し、フローリングの床の上で小さなパーティが始まった。
今日のパフォーマンスはトライアングル奏者という趣向であった。
彼の奏でる音が周囲の作品と重なり共鳴をはじめる。単調な繰り返しかと思えば、時には激しく打ち続ける。彼の額に汗が溢れ、その高い鼻梁をつたって雫となって流れている。
その雫がライトに照らされ輝きを放っているのが見える。
彼の指は、ある種のエロチシズムを感じさせる。この部屋の中の密度を高めてゆく。
私たちが緊張から解放されるのは、彼がその手の動きを止めるまで待たなくてはいけなかった。

灯りがつくと人々は堰を切ったように快活に話し始めた。
今夜の客は3,40人というところだろうか。ワインとビールに軽食を用意した簡単なものである。それを口にしながら品のいい会話を楽しんでいる。
ほとんどが白人であり、ラテン、アングロサクソン、ユダヤなどで占められる。皆、質の良い服装を纏ったおしゃれな人達である。
知的な雰囲気を漂わせ私と目が合うと愛想の良い笑顔で応えてくれる。男女とも教育水準の高い人達であり、この街の両極の一方に位置する人達に近い。
彼らは作家と作品に賛辞の言葉を惜しまない。本心は別にして。

外の寒さも、緊張感もこの場所には存在しない。居心地の良い空気に満ちている。

私は最後の客を送り出すと、やたらに頑丈なドアを閉め外にでた。街の喧騒は、はじまったばかりであった。                                            (11月4日、PM11時 ソーホーの画廊にて)

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2006年1月20日 (金)

ニューヨークのエンジェル達の つづき。

(前文より続く)

日が随分と短くなった夕方、ワシントンスクエアーでクリストフと待ちあわせをしていた。遠目から私を見つけると彼は小走りでやってきた。彼は私の知っている彫刻家の中では珍しいくらい真面目で親切な男であった。約束の時間を守る数少ない友人であったが、それは彼がポーランド系ユダヤ人であることと無関係ではないのかもしれない。
今日、彼にイーストヴィレッジの画廊のオープニングパーティに誘われていたのだ。彼の作品も含めた仲間の現代彫刻?の展覧会であった。

画廊とは名ばかりの朽ち果てた倉庫の中に入っていった。壊れかけた鉄のドアを押して入っていくと、そこには異様な空気が流れていた。
先ず、彼らの身なりに圧倒された。市販されたものではない、独特の色彩とデザインである。決して綺麗といえるものではないが。
それまで、私の知っている画廊のオープニングは富裕層やヤッピーといわれるヤングエリートがお客の事が多かったのである。故に、身なりも仕立てのいいものを纏っていた。多くはウォール街あたりのビジネスマンであった。

パーティーなどといっても乾杯があるわけでもなく、いつ始まったかもわからず、またいつ終わるとも定かではなさそうだった。勝ってきままにビール片手に話している人の中の僅かばかりの空間で、誰にも注目されないパフォーマンスをしているものがいる。怪しげな占いのようである。
ここでは飲み物も食べ物もでない、自分で持参するしかない。酒かドラッグか、酔った大柄の男が騒ぎ出し、展示されている作品を壊している。誰も止めない。それもありなのだ。
大声で言い合いのすえ、摑み合いを始めるもの。その横で静かに作品を眺めている人。
私の頭の上をビール瓶が飛んでゆく。何本も。ビンの割れる音が心地よい。

滅茶苦茶のパーティー。でもこんなおもしろいものは、なかなかお目にかかれない。
あまりの騒々しさに外にパトカーが来た。近所の誰かが呼んだに違いない。私は”少しやばいかな”と思ったが、警官も中には入ってはこない。冷静な関係者が玄関で対応している。
いざとなれば、裏口もある。

ここにいる彼らの行動はあまりにも無秩序である。そして、この部屋の中といったら、もしここに保健所がきたら全てが消毒液の中に沈められるのではないかと思うくらい汚い。
しかし、このエネルギーはなんだ。この中から、新しいものが生まれてくるのだろうか。
私は飛び散るペンキから逃げ、倒れてくる作品の鋼材から身をよけながら、この宇宙に酔っていた。それともビールを飲みすぎたのだろうか。

一瞬、ここで死んでもいいかなと思った。どうせ東京を逃げ出してきた身だ。このまま何処までも逃げ続けたかった。まどろみと覚醒が交互にやってきた。
サイレンの音が遠くで聞こえる。誰かがまた、火をつけたのかもしれない。

(11月26日、AM3時、イーストヴィレッジにて。)

この文章を書き写した後、これを読んで皆さんがこのアパートを出て行ってしまわないかと心配にもなりましたが。どうぞ、留まって下さいね。

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2006年1月19日 (木)

ニューヨークのエンジェル達

私がこの街で付き合っていた芸術家、とりわけ美術関係の人々はそれぞれが、えたいが知れない、それだけに危険な魅力に溢れていました。この頃のニューヨークはキュピズムもリアリズムも何でもありでしたし、現代アートも華やかな輝きを放っていました。
五番街の画廊で脚光を浴びる作家、我々のようなソーホーに展開する企画画廊が取り扱う作家、そしてどちらにも関係なく自由気儘な創作活動をする作家、いろんな人が蠢いている町がニューヨークでした。
その生態は、当時または現在の私の知る日本の美術家たちとは別世界のようでした。事実、日本からやって来る画家や彫刻家を彼らに引き合わせますと、日本の知人の多くは人が変わったようにポジティブな動きをしていました。

時々このブログにも書いていますが、芸術家の多くが住んでいたソーホーも(もともと、ここは倉庫が多かったので芸術家が家賃の安さもあって入り込んで所です。)土地の高騰と共にこの場所を追われイーストリバーの近くやインド人の多いイーストヴィレッジに移り始めていました。
私も、またアッパーウエストという治安のよい街から、この廃墟だらけの街に移り住んだ経緯はお話した通りです。ただ、私にはこの町もここの住人達も刺激的な魅力あるものでした。

この場所に棲む作家達のことを少しばかり、私のメモより転記してみます。
私の雑文をお楽しみ下さい。ただし、楽しくなくても責任はもちません。・・・・つづく

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2006年1月16日 (月)

雨の日の美術舘

(前文よりつづく)

絵の描写を言葉にすると、このようになる。
白人と東洋人が美術品を品定めしている絵。そこには白人と東洋人の上下関係がはっきりあらわれ、、白人の背中にいやらしさがこみあげるように描かれている。
水かスープをガツガツと飲む老いた黒人、肉を解体する男、聖書を脇に抱え妙に醒めた顔でキリスト像を眺める老女など、彼らの生活を描いたものが多い。
また、思想的な表現の絵は、星条旗に向かって拳を突き上げる黒人の男。白人の兵隊に馬乗りになった老女、彼女の手元には小さな星条旗がはためいている。
ふんぞりかえる白人の顔の絵は外面はきれいだが、反面醜く腹黒いものとして描かれている。

あまりにも強烈なメッセージが伝わってくる。これらの絵には共通して感じるものがある。
彼らの悲しみ、苦しみ、嘆きである。そして怒りである。
私にも彼らの絵は、はっきりと語りかけてくる。絵そのものの出来など問題にならない。
生命力に溢れ、自己表現が明確に伝わってくる。

私は絵からこれ程の衝撃を受けたことはなかった。この空間は私の体を心底震えさせてしまう畏れの場所である。権威、差別なるものに屈しない意志を感じる。

ここにある絵は決してMOMAやメトロに掛かることはないだろう。商品として支持される事も無いだろう。しかし、、綺麗なだけが絵ではない、絵は時として凶器にもなるかもしれない。
この美術舘は、まちがいなく私に新しい発見をもたらしてくれた。
さあ、これからハーレムに繰り出そう。この街は私を受け入れてくれるだろうか。
(11月13日、ハーレム、スタジオ・ミュージアムにて)

なるべく当時の文章に忠実に転記しました。自分で読み返して、私のブログにコメントくださる皆さんにお勧めできる場所ではないと思いましたが、かの地も現在は治安が昔と比べると格段によくなっているらしいですね。
逆にいうと私がもし今、ここを訪れると全く違う感想を抱くかもしれません。緊張感の中で味わうことは二度とないでしょうから。
次回は、この街のアーティストたちのことを書いてみたいとおもいます。

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2006年1月15日 (日)

雨の日の美術舘

前回、MOMAなどの事を書きましたが今回は少し雰囲気の違う美術館のお話です。これを書くのに私は二十年前に附けていた雑記帳を探し出しました。
今、読みますと可也、気恥ずかしい思いになりますが、ほとんどそのまま転記させていただく事をお許し下さい。
また、現在の状況との違いもあるかもしれません。その時は、ご存知の方はぜひ教えて頂きたいとおもいます。

日曜日だというのに、この美術舘の客は私、ただ一人である。MOMAやメトロポリタンとそんなに離れているわけではない。別世界のような静けさである。
私の靴音だけがこの静けさを引き裂いていく。外は大雨であった。
これでは誰も寄り付かないかもしれない。ハーレムのスタジオ・ミュージアムでの私の時間だ。しかし、人影がないのは雨ばかりのせいではなく、そこにある作品によるところもあるらしいと、後になり気づかされることになる。

今日、ここに着いた時には表の鍵はしまっていた。中に灯りが点いているところを見ると昼食の時間は鍵をしめるのだろうかとおもったが、ドアのところにカードが掛かっていた。
土曜、日曜はPM1時から6時までと書いてあるではないか。なんとのんびりしている事よ。
開館まで15分、どこへ行くあても無いのでその場で待つことにした。
傘では防ぎきれないだけの雨が吹き付けてくる。僅かの時間なのに随分と永い間、そこに立っていたような気がした。
開けてもらって、ようやく入った時にはスニーカーの中に水が浮かんでいた。

そこは小さな簡素な美術舘だった。
しかし、ここにある絵に囲まれ、椅子に座っている間に何と私は多くの声をきいたことであろう。黒人の画家によって描かれた作品は、私が今まで聞いたことも無い程の能弁な語りを聞かせてくれた。
作品の中には女性画家のキャンパスから湧きあがる色彩を感じたものや、額の中から木の枝が這い出してくるようなイメージの豊かさを感じさせた。
しかし、私の眼を捉えて離さないものは他にあった。

ここまで書いて、自分の過去の文章に忠実に従ったつもりですが、今一度整理が必要なようです。次回この続きを書かせていただきます。お待ち下さい。

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2006年1月12日 (木)

ニューヨークの美術舘遊び

前回の文で急に絵に夢中になった経過を書きましたが、それからの私の美術舘めぐりは、ほとんど病気。ともいえるものでした。ただ、芸術に目覚めるというよりは遊びを一つ見つけたような物でした。
私の性格上、自分が納得するまで終わりがなく、着地点は予想もつきませんでした。

外国で美術舘に入る時は、観光の一部のような気持ちがどうしても拭えませんが、自分が棲んでいる町で、しかも歩いていける距離にあるとなると、美術館といえども特別な場所ではなくなります。
私にとって、MOMAやメトロポリタン美術舘、五番街の画廊などはセブンイレブンかローソンにいくようなものです。
私にとっていかに身近な場所であったかといいますと、市立美術館とメトロポリタンの入場回数はそれぞれ50回以上だと思います。もっと多いかもしれません。しかも、そのほとんどは入場料は払っていません。この理由を知っている人は多いと思いますが、欧州が絵画に限らず芸術に国家の予算を多く割くことによって客が入りやすくしているのに対して、USAは税法のバックアップもあり民間の寄付で維持、運営されています。

MOMAも最初3回くらい払ったのですが、もう充分貢献しただろうと思いそれからは、木曜日の夕方5時からしかいかなくなりました。なぜなら、その日、その時間は原則、入場料は制限はありません。当然、私のような人が多いのですが、この国の美術に対する捉え方が窺い知る事が出来ます。(半月ばかり前、NYに永く棲んでいる友人が一時帰国しまして聞いたところMOMAの建て替えがようやく終わったことを聞きました。)

メトロポリタンもご存知の方もおられると思いますが入場料は原則決まっていても必ずしも払う必要はありません。”私は学生です。”といえば入り口はフリーです。(NYは国中から画学生が集まってくるようで、模写している若者がほんとに多い。)お金を要求されることはありません。
最近、一時帰国のその友人に聞いた話ですがその友人の叔父さんは50代ですが、いつも払わないではいるそうです。まさか”私は学生だ”とは言わないでしょうが、何といってはいるのでしょう。聞きそびれてしまいましたが、おそらく”私は絵が好きで勉強したいがお金は無い”ぐらいのことをいえば大丈夫なんでしょう。
つまり、美術だけでなく芸術全般に関しての考え方が我々とはかなり違っています。残念ですが。
ただ、私のメトロポリタンの入り方は少し違っていました。学生という必殺のうそを吐くこともあったのですが、私は6,7回はお金は払いました。現在の事はわからないのですが当時、お金を払うと小さなバッジをくれました。それを胸に着けていると出入りが自由の証なのです。美術舘があまりにも大きいので時間無制限でということです。
私はこのバッジに目をつけまして、というのは、このバッジは曜日ごとに色が違うのです。
私はすべての色を揃えました。それをつけて、午後から堂々と入っていくのです。

でも、私はアンポンタンなものですから、ときどきバッジの色をまちがえるのです。曜日が違えば無効なんですから。でもそんな時は背筋を伸ばして”僕は学生です。”

次回はこの街であまり皆さんがいかなかったであろう、私の思いで深い美術舘のお話をさせて頂きます。

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2006年1月 8日 (日)

美術舘というドラマ。

日本にもたくさんの美術舘がありますが、皆さんそれぞれ拘りと思い出がある大好きな美術舘を心の中にお持ちだと思います。
私は日本でも知らない所がたくさんありますが、自分なりに好きなものがあります。人それぞれ絵画、陶器、版画、工芸など好みも違うのでどこが一番かなど論ずることもできません。まして美術館の大きさや収集品の有無できまるものでもありません。
ただ、私などが好きな美術舘の定義はその美術館の環境、建物の外観などに大きく左右されるといっても過言ではありません。
もし、美術品にたいする素晴らしい審美眼を持っていたら作品そのものが、好きな美術舘を決める大きなファクターになると思いますが、私にはそれがありませんので。

実は私は昔の話ですが、美術というものに興味がありませんでした。というより大嫌いなものでした。なぜかというと話を少し遡らなくてはなりませんが京都の学生時代に演劇、映画なるものにのめり込んでいました。東京に上京後も新劇の劇団の研究生として朝までスタニスラフスキーやブレヒトを論じ、肉体訓練で体を極限まで鍛える毎日でした。
余談ですが、私が上京したときの体重は85Kgでしたが一ヵ月後には62Kgまで減っていました。毎日3食、腹いっぱい食べてです。そうしないと訓練はもちませんので。因みに私の現在は身長178Cm、体重は・・・。元に戻りつつあります。

私の興味は動的なものに限られ、美術とは何とつまらない、ドラマの無い感激の無いものであるかというおもいだったのです。劇団の高学歴の友人達(学歴の話は無意味ですが、一言世間の皆さんに言わせて頂ければ、一応高倍率の研究生試験をくぐりぬけてきた同期たちはT大でシェクスピアを専攻していたとかの秀才ばかり、そんな人間が皿洗いのバイトなどをしながら芝居を続けていました。酒を飲むと、親に対する懺悔も少しだけ・・・。)
の中には美術の重要性を説くものもいましたが。

私が絵画の中にストーリー性やドラマを見出すのは芝居をやめ日本を脱出するまで待たなければいけませんでした。20代も後半に差し掛かっていました。
NYに逃げ出した私は、このブログの中にも書いていますが、夕方からのブロードウェーや深夜のグリニィッジに出かけるまでの日中の時間つぶしに美術舘めぐりを始めたのです。

私がMOMAに入ったときです。一枚の絵に釘ずけになってしまいました。どこがいいかなど理由など存在しません。ただ其の絵に圧倒されたのです。号数の大きさもありましたが、なによりその色彩、無駄のない力感が知識の無い私にも感動を与えてくれたのです。
其の絵は、マチスのダンスでした。マチスと言う名もそこで初めて知るくらいの美術音痴の私でした。
しかし、その後、もう一枚の”ダンス”をみるためにレニングラード(今のサンクトペテルブルグ?)のエルミタージュにいってしまうくらいですから私ののめり込みは異常とも言えるものでしたが。

長文になりすぎました。私の事ばかりを書いてすみません。次回はNYの美術舘について書きたいと思います。

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2006年1月 5日 (木)

大好きな美術館。

私は美術そのものが本当に好きかと問われたらYESとは言わないかもしれません。
なぜならよくわからないからです。大学で美学を学んだ人たちのように知識は無いし、尽きる事の無い興味もないのです。
ただ、訳も無く感動した一枚の絵画があり、身を置くだけで嬉しくさせてくれる美術館という空間が私を虜にすることがあるだけなのです。知識は必要な時がありますが、得てして感性を阻害してしまうのではないかとおもうことがあります。素人の浅い考えですけど。
最近、名のある、美術評論家といわれ方達とお話させていただく事があるのですが、一度聞いてみたいのです。美術評論家とは何ぞや。何の為に必要なのか。と。絶対に言いませんけど。

皆さんそれぞれ好きな美術館があると思います。バブル以来、日本にもたくさんのそれが誕生しまして、最近でも時々ニュースにとりあげられることもありますが、今、地方につくったものを含め大変苦しんでいると聞きます。
特に抽象を中心にした美術館が入場者数の激減で閉鎖においこまれたり、経営が困難になっているとのことです。そもそも、見る側にその文化が定着していないのですから当然の結果かもしれません。
美術館も淘汰され価値あるものだけが残っていく時代なのかもしれません。

私は一般の生活者というレベルのなかでは美術館を知っている方だと思いますが、それでもまだまだ私の知らない面白そうなそれがたくさんありそうです。このブログでもみなさんに教えていただく事もよくあります。今後もいろいろ教えを頂きたいと思います。
次回は私の好きな美術館とその思い出を書かせていただきます。もちろん私ですから美術館の作品の評価や建物の説明は殆どありません。それは、HPなどを見ればすむことですし私などより知識のある方にお任せいたします。

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2006年1月 2日 (月)

初夢は富士山ではなかった。

あけましておめでとうございます。
皆さんどの様な新年を迎えておられるのでしょうか。
私は只今、箱根山中にて怠惰な年末年始をすごしています。ここ数年、恒例にしていまして、などと書くと優雅に聞こえるかもしれませんが慎ましく過ごしています。
本来ならば故郷に帰らなくてはならないのですが、まして私の故郷は今年は季節はずれの大雪でして、雪降ろしくらいはするのが当然なのです。
ただ、余りの寒さに家族が風邪をひく事が多いため数年前からこのようなかたちになりました。
田舎の両親に申し訳ないなと思いつつ、箱根の白濁した湯に入っていますと親不孝にも田舎の事などすっかり忘れ、また年頭に当たり、この大変厳しい仕事の難局をどう乗り切るか今年のプランニングを起てるということも何処かに行ってしまいます。
どうしようもないこの性格、なるようにしかならないと思ってしまいます。
人生は一寸先は闇、だから怖くて面白い。が私のモットーなのです。これを言うと皆に呆れられてしまうのですが。

私が日本に生まれて良かったと思う瞬間は温泉に入った時ですが、同じ気持ちの人が多いのではないでしょうか。東京から来る時は天気もよくて運転もスムーズでしたが、元旦から崩れ始め道が心配ではあります。家族相手に飲んだくれて呆れられていまして、今日も駅伝の応援に出た以外は怠惰な時間を過ごしています。

明日は東京に戻ります。こんな私ですが今年一年お付き合いの程、宜しくお願いいたします。皆さんの知恵をお借りして、もう少し面白いものにしたいと思っていますが。
いつも思ってはいるのです。ただ実行と能力にやや問題あり、です。
年頭に当たり、もう少し更新を早くすると宣言します。と言い切りたいなー。

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2005年12月19日 (月)

このアパート貸します。

皆さん、お元気ですか。
寒くなりましたが、風邪などひいておられませんか?
私は元気なんですが、ブログの方はご無沙汰で申し訳有りません。コメントもくれたことが無い悪友が”最近、更新してないね。”なんて電話してきました。
”代わりにお前が書け。”とも、”もうすぐお前の銀行合併するけどシステム障害は大丈夫なんだろうな。”とかいってやりました。

でも、本当のこというとなかなか書けないものですね。どうしてだろうと考えたのですが、結論として私のブログには一貫したテーマが無いことに気づきました。
もともと、気ままに書こうと思っているものですから、それがいけないのかもしれません。
例えば、ジャズや美術をテーマにしている人のブログを拝見すると、ご本人が造詣が深く、経験もあるので、話がどうしても専門的になり余程の知識がないと入り込めないものが多いように思います。例え専門的な知識があろうともいろんな人が興味を持って見てくれるように解りやすくデフォルメされた楽しいものにするのが私の理想です。
勿論、私の知識は中途半端なので専門的ではなく、楽しみ方とか、その事象の周辺に話題がいってしまうのですが。

時々、どなたか書いていただきたいくらいなんですが。
笑われそうですが、これでも昔は物書きに憧れた事などありまして、脚本、戯曲、私小説下手のなんとかで書いていましたが、今は企画書を書くのも苦痛で。

そのうち、私のゴーストライター(ワルノリの好きな友人)が登場するかもしれません。でも、そいつの方が評判良かったらどうしよう。
次回は美術について書いてみようかと思っています。ただし、美学にはなりませんのでお許し下さい。

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2005年12月 6日 (火)

ジャズ喫茶 京都の思い出

京都に関しては学生時代を過ごしたこともあり、それ以前の、小学生の頃から何度も訪れていたので、こだわりが人一倍でどんなガイドよりも京都の隅々まで知っているという自負がありました。しかし、それも二十数年前の話です。
今は滅多に訪れることも無く、時々仕事がてら脚を運ぶと昔との変わりように驚かされます。
学校さぼって、いっていた店も随分なくなってしまいました。でも、自分の中ではあの日々は不変です。音楽に芝居に遊びに夢中で勉強がでてきませんが、それでも学生時代を京都で過ごしたいと願った選択だけは間違っていませんでした。
すばらしい時をすごせました。私は東京住まいですが、子供たちには、せめて学生時代は京都で過ごして欲しいと願っています。

京都の話題であればブログの更新が遅いと怒られている私でもいろいろ書けそうですが、今日は京都のジャズ喫茶の思い出を書いて見たいと思います。みなさんは京都にジャズ喫茶というと違和感があるかもしれませんが、日本のジャズ喫茶の草分けは京都なんですよ。私たちの学生時代は有名な店もたくさんありました。
そして学生は解ろうが解るまいがジャズを齧っていないと、格好がつかなかった時代。と思っていたのは私だけかもしれませんが。

私の場合ジャズのライブハウスもレコード聞く喫茶店も全てまとめてジャズ喫茶といっていました。実際、京都では普段はコーヒーを飲み、夜は酒を飲みレコードを聞く店で、時々、チャージを取ってライブをやっていました、
北大路や河原町にはライブを専門にする店もあり、東京の一流といえるバンドもでていました。私は、学生の身分では時々しかいけませんでしたが、いくと友人達と”やはり、ジャズはライブだなー。”とはいいながら、自分にはジャズ喫茶が一番だと感じていました。
京都には丸太町に”大和屋”がありましたし(高校時代、五木寛之のエッセイを読んで憧れていました。)今出川通り、北白川、河原町にもそれぞれ個性の違う店が多くありました。

私の、あるいは私たち学生のシマは、人ごみの中の河原町もありましたが、むしろ北白川辺りにありました。夜の十二時すぎくらいに下宿を出て店に行きます。酒を飲ませる店ですが、コーヒーだけで朝まで本を読んでいる者もいました。よく考えると、あの薄暗い店内でよく我々は本を読めたなと思います。
私などはボトルを入れていつも飲んでいました。ボトルといっても銘柄は”サントリーのホワイト”です。安く酔えるには最高でした。朝まで学生たちは寡黙でそれぞれの時間を過ごします。まさしくジャズに浸る時間でした。

それから、私には忘れられない店が有ります。荒神口にあったそのジャズ喫茶は先年訪れた時には、朽ち果てた廃墟になっていました。時の流れは残酷です。
その店は狭い階段を上った二階にありました。小さな店でしたが品のいい雰囲気のある空間を創っていました。私はいつも一人でコーヒーで二時間ばかり粘るのが常で、帰り道に加茂川の河川敷や御所の中を歩くのが好きでした。
この店は私達の世代のバイブルともいえる”二十歳の原点”を書いた立命館大学の女子学生がかつてバイトをしていたといわれる店でした。
私は高校時代、この本を読んで、この店に行けば彼女の心の内が解るかもなどと考えていた節があります。もちろん、理解などできるはずもありませんでしたが。
この作者は、日記を完成させることありませんでした。バイトを休んだ日、彼女は鉄道自殺を選択します。

京都のジャズ喫茶には、思い出がいっぱい詰まっています。
次回は東京、NYのジャズ喫茶の思い出を書いてみようかと思っています。興味を持って頂ける方は、お付き合い下さい。

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2005年9月10日 (土)

イノセントハウス その3

先日はニューヨークに向かうまでをお話しました。続きです。

ニューヨークでの私の生活は、このようなものでした。昼に起き出すと先ず美術館へ行く。(マチスやウオッホールに嵌っていました)夕方になるとブロードウエーでミュージカルを見る。(午後3時か4時になるとタイムズスクエアのチケット売り場で半額のチケットを求めて並びます。)深夜になるとグリニッジのバーへ。ポップコーンとビールで5ドルの店で朝までジャズに浸る。(当時、東京で高額な入場料を払って見るミュージシャンも聞けました)

これを4,5ヶ月、毎日続けました。美術館は行き尽くし、何度も同じ所に脚を運びましたが新しい場所を求めて画廊に行くようになりました。ジャズもハーレムやイーストハーレムにまで脚を伸ばすようになっていました。ミュージカルもオフブロードウエーに新しいものを求めました。

そして当然、お金は無くなります。当時、私が住んでいたところはマンハッタンの中のアッパーウエストと言う所です。環境の良いところと言われユダヤ人の多い町でした。(ジョン・レノンが殺された場所でもありオノ・ヨーコが住み続けるダコタマンションもすぐ傍にありました。)手持ちの具合で引越しを余儀なくされ、私はイーストリバーの近くにアパートを移したのです。そこが、どんな街かと言うと、それはもう、映画のシーンに出てくるような所でした。安全と言う意味で夜の一人歩きは絶対にできません。どこから狙われているかわからないような街です。事実、時々、殺人事件が起きます。廃墟のビルが多く在りましたが、ホームレスすら拠りつかない雰囲気があるのです。

当時、ニューヨークの芸術家の溜り場は”ソーホー”という地域であると言われていましたが、現実的には、もともと倉庫の多かったその場所もアパート代の高騰で棲めなくなっていました。そこで彼らは、拠点を”ソーホー”のとなりのイーストビレッジに移し始めていました。私の新しいアパートはそんな所に在りました。

次回はそこに棲む人たちのことなど、少し書かせて頂きます。

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2005年9月 7日 (水)

イノセントハウス その2

その1からの続きです。イノセントハウスと名付けるに至る物語です。

今から20年前、私はニューヨークに暮らしていました。暮らしていたと言うと、それなりに聞こえますが実体としては、そんな生活感などは伴わないほとんどが毎日が遊びの日々だったのです。私がニューヨークに行くことになったのには、何か特別な理由があったわけではありません。ただ私はそれまでに続けていたことに一つのピリオドを打っただけでした。

当時、私は学生時代から演劇なるものをかじり始め、京都にいたものですから撮影所の助監督の使い走りや大部屋俳優の末席に加えてもらっていました。テレビや映画にも少しのセリフをもらい出ていました。そして、その麻薬的な世界にどっぷりと漬かり込み、次のステップとして東京の劇団の研究生として上京したのでした。ふと気づくと数年の月日が流れていました。当然、いろんな事がありましたが突然、芝居との距離をおきたくなったのです。と、言うと格好よく聞こえますが、結局、逃げ出したかったのです。とにかく、知っている人がいない所へ行きたいと言う気持ちで、僅かばかりの土地勘のあるニューヨークへ向かいました。

そこでの生活がその後の自分の価値観に大きな影響、歪み?をもたらす事になりますが、次回、その3でお伝えしたいと思います。

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2005年9月 4日 (日)

イノセントハウスとは その1

イノセントハウスとは、どんな意味?聞かれると、愉快な、または楽しい人が集う所と答えています。そんな場所を創りたいと思っています。多くの人に参加して頂き、自分なりの”感動”を、時には発信したいと願っています。それと共に、私的には、イノセントとは”愚か者”と言う意味合いも強くあります。自嘲的ではありますが、そんな所に”真実”は在るかもとも考えます。

こう考えるのは、私が純粋なもの以上に屈折したものに魅力を感じるアマノジャクだからかもしれません。また、イノセントハウスと付けたいわれは他にもあります。これを次回から少しノンフィクションでお伝えしたいと思います。

ブログ初心者のページを見て頂いた皆様、ありがとうございました。今後、少しでも皆さんに興味を持ってもらえるものが発信できたらいいな、と。よろしくお願いします。

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