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2006年3月30日 (木)

満開の桜に想う・ある小さな出来事。

桜、好きだ。誰しもが好み賞賛する故に”私は桜が大嫌いだ”と言いたいのだが、理屈抜きに好きなのだ。
淡いピンクの色彩の中に身を置くと、えもいわれぬ恍惚感をあじわう。まして、沸点に達した途端、散り始める危うさのなかには自ら脚色し演じたドラマの幕引きさえ感じる。
今日、歩いていても電車の車窓からも桜の開花が目に附く。
忙しさに追われて”今年はそういえば桜観たかな?”などと思った年もあったが、殆どの場合どこかに花見に出かけていた。京都にいた時は、円山公園のシダレザクラ、嵐山、加茂川べり、仁和寺の遅咲きの桜。そして特に好きだったのは、名所ではなく嵐電(ランデン、京福電鉄北野白梅町線)の鳴滝周辺の桜のトンネル。この時期にはただそれを見たいがために乗り込み何度も往復していた。また、奈良の吉野、山が桜に埋まる風景もわすれられない。
東京も上野公園、千鳥が淵、市谷界隈。なかでも好きなのは、地下鉄丸の内線に乗っていると四谷で僅かながら地上に出る、その瞬間目に飛び込んでくる桜。駅の傍に咲いているなんでもない桜だが、その演出効果によるサプライズは絶大。
数えても切がない。また、名所に限らずいたるところに素晴らしい桜並木がある。学校や近所の庭にも。
人々は皆それぞれの思いを桜に重ね、託すのかもしれない。

私にはこの時期になると、思い出すことがある。忘れられない、小さな、小さな出来事だ。それは今からさかのぼる事、ちょうど十年前ぐらいのことである。

私は当時、都内から郊外のT市に引越してきていた。散歩コースとして多摩川ぞいを歩く事が常で、その日も家人とともに暖かな日差しに誘われ狭い棲家から這い出してきたのだった。
堤防横の道は桜並木が続いていたが、今まさに満開の時を迎えていた。桜の名所でもなく人々が集う公園でもないため宴会目的の人もおらず、道行く人が時々立ち止まって見上げる位のものである。
余りに見事な桜の洪水の中を独り占めできる喜びに浸っていた。
その時ずっと向こうから一台の自転車がやってくるのが見えた。しかし、自転車はなかなか私達の前までやってこない。時々止まっては進み、進んでは止まると言う具合だった。きっと自転車に乗りながら桜を楽しんでいるのだろうくらいにしか思わなかった。
やがて、自転車はすぐ近くまでやってきて止まった。乗っていた男の人は六十代後半に見えた。頭には白いものが多く、細身の体からはどこか穏やかな雰囲気が溢れ出ていた。
私と眼が合った。彼は軽く会釈すると、遠慮がちに胸のポケットから一枚の写真を取り出した。そして、その写真をいとおしむように両手でつつみ上に向けたのだった。その先には満開の桜が咲きほこっていた。
私たちは声を失った。その写真が黒縁の額にはいっていなくても全てを察することは容易だった。その写真の人は女性だったが年齢を重ねた人に見えた。彼の奥さんだろうか。
その人が鬼籍に入っていることはあきらかであり、写真は真新しいものに思えた。
彼は言葉を発してはいなかったが、その写真と会話をしてるかのようだった。彼の表情は笑っているようにも見える。やさしさに溢れている顔だ。
きっと写真の女性は桜が好きだったに違いない。春になって共に見る約束をしていたのだろうか。その約束を果たす事無く逝ってしまったであろう女性の為に、彼は一人、その約束を果しにきたのだろう。
いや・・・・、紛れも無く二人は今、一緒にこの満開の桜を楽しんでいるのだ。彼の想いが伝わらないはずは無い。
どれくらいの時間が流れたのだろう。やがて、彼は私たちの前を通り過ぎていった。しかし、また時々立ち止まるのが見える。きっとまた写真を取り出しているのだろう。
桜の中に浮かぶその後ろ姿は一枚の絵のようにも見えた。
私たちは、その姿が見えなくなるまでその場を動こうとしなかった。横にいる家人の顔が幾分、紅潮して見えたのは桜の色に染まったばかりではなさそうだった。
私は夢を見たのかもしれない。淡い、ピンクの世界の。

桜の季節はいろんな物語を運んでくる。私はそれがどのようなものでも、受け入れることが出来そうに思えた。

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2006年3月25日 (土)

広重そして江戸東京博物館

ギャンブルのことばかり書いていて少し食傷気味ですので話題を変える事にします。
今日は土曜日ですが、誰も居ないことを幸いに事務所に出てきましてPCの前でブログを書き始めています。
昨日の私の一日でも綴ってみます。

珍しく早朝から事務所に出まして、事務仕事を処理しました。というのも今日は時間を創って何とか両国にいこうと決めたからです。私はいつもそうなんですが直前にならないとなかなか行動しない人でして、広重の展覧会の期日が終わりそうだったのです。
両国あたりは仕事で行くこともないものですからなおさら後回しになってしまいます。
午後からやっと江戸東京博物館へ出向いたのでした。
私は初めてだったのですが、外からはその目立つ大きな箱はよく見ていました。正直に言うと”税金の無駄ずかいの箱物をまた役人が創ったんだろう。”としか観ていませんでした。

入ってみると確かにお金を掛けた建造物です。しかし、私は広重よりも博物館の方にむしろ興味を抱き感じるものがあったのです。

広重は江戸東京の文化、歴史、生活の展示物の一角に展示されていただけでした。浮世絵は東海道・・ではなく江戸百景です。作品はその一部で秋、冬のもの30枚くらいです。好きな人には少なすぎる数ですが、私には却ってこのくらいのほうが良く観れて。
私は展覧会のあの膨大な展示物にはいつも閉口しまして、何をみたか判らなくなりますので、事前にプログラムが手に入る時は観るものを限定していくことが多いのです。
中にはこの一点だけが見たいなんて事もある、随分もったいない客でもあります。
広重の版画は北斎とは対照的なもの。北斎の大胆な構図と緻密なデッサンは私をとりこにします。それに比して広重の絵は丁寧に描かれ、なんともいえぬ”癒し”が存在します。どちらも素晴らしいです。
しばらく至福のときを過ごしました。

しかし、それ以上に思い出深いものをこの博物館で感じました。日本の文化というと如何しても京都を思い出しますが、江戸という文化が存在したことを確認しました。
そこには町人文化というエネルギーに溢れたものがあったことをすっかり忘れておりました。展示物も単純な羅列ではなくよく考えられた見せる工夫がしてあります。
江戸、明治、大正、昭和それぞれの時代と生活が理解できるのですが、私にとって衝撃的だったのは昭和は私にとっては身近なものだったのですが、もはや博物館で見聞するものになっていたことです。
確かに、私の子供達が知らない昭和がそこにはたくさんありました。
私と同じように”ショック”を感じたい方はぜひ行ってみてください。意外に楽しめる空間です。外人が多かったのですが、我々こそもっと行くべきかもしれません。

その後は、銀座のシンワの本社によりました。明日のオークションの下見会のためです。もちろん私が明日、数千万、数億のものを落とす予定などあるはずも無いのですが勉強と冷やかしのようなものです。

その後は、都内のある場所で20時から、仕事の打ち合わせに顔を出しました。

これが、私の一日です。元気に遊び、元気に仕事をした、極、稀な?一日でした。
また、私の”ある一日”と題して書かせていただきます。次回はギャンブル道に戻る予定ですが、その前に季節感のある話題を書くことになるやもしれません。

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2006年3月22日 (水)

ギャンブルの道・疾風編

私が東京へ上京することになったきっかけは既に何度かお話している通りです。
周りの人に勧められ、何より自分がその気になってもっと芝居というものを知りたいとおもったのです。”芝居をやるならやはり、東京しかない。”と。そして、運良くある新劇の劇団の研究生試験に受かったことで上京したのでした。

当然、ギャンブルに対する捉え方は京都にいた時とは可也違ったものでした。
ギャンブルとは楽しむものだったのが、お金を稼ぐものに変化していました。劇団などに入っていますと公演近くなるとバイトもできませんし、普段でも時間の制約されたものは不可能です。
地方へ公演など行って東京のアパートに帰ってくると、何ヶ月も部屋代が溜まっており、その支払いのあてなどありません。芝居で得られるお金など、持ち出しの方が多いくらいなんですから。
電気やガスを止められるくらいは驚くことでもありません。
多くの仲間が芝居から去っていきました。残念ながら、情熱だけでは続けられないのが現実なのです。

私が辞めて逃げ出した経緯については何度も書いておりますので省略しますが、私もまた生活費をどうするかは大きな問題でした。
その時には、親に勘当もされておりましたので、金を念出せねばなりません。バイトを探してもすぐ辞めなくてはいけなくなったり、時間の都合の付くものがなかなか見つかりませんでした。
そこで、私はある時期、麻雀で生活費を稼ぎはじめました。時間的には自分の都合でいいのです。後は稼げるかだけでした。
そこで、私は新宿や新橋の麻雀荘にひとりで出入りしはじめました。勿論、見ず知らずの人と打つわけです。お金は何かあったときのために殆んどの持ち金を所持していました。
ただ、けっして危ない店には出入りしませんでしたし、大きなレートのものも避けました。
それでも、いろんな人が声を掛けてきます。
ある時は、少しその筋らしいお兄さんにコンビを組まないかと誘われたこともあります。
判らないかもしれませんが、4人の麻雀で2人以上に組まれると勝ち目はありません。
”とうし”などの合図を送ることでイカサマもできます。
勿論、断わりました。若いので曳きの強さがあり、それだけでなんとか稼いでいました。所詮、大した金額ではありませんが。

それすらも、時間が無く出来なくなってしまいました。
その時の思い出をひとつだけ披露します。ある時、よく行く雀荘でいつものように打っていました。そのときには、時々同じ卓でやることがあった30代の男性と一緒になりました。
実は私にとっては”お得意さん”の一人でした。随分荒い麻雀をする人で、いつも負けていました。
羽振りがよくて、自分は築地の乾物屋の跡取りだとのふれこみでした。
その日も可也勝たせてもらっていました。すると、突然、店に入ってきた数人の男が彼の両側に立ちました。”Yだね。”と呼びかけましたが、その名前は私たちが知っているものではありません。
”違いますよ”と彼はこたえましたが、もう一度、中年の男性が”Yだな。兎に角少し来て。”と有無を言わせずに荷物を整理させて外に連れ出しました。
私たちは急なことで訳がわからなかったのですが、呆然とゲームを放棄して出て行く彼を見送りました。皆でビルのベランダへ出て下を覗きますと、出入り口にはまだ数人の男がそこを固めていたのです。出てきた彼を全員で取り囲むと車に押し込み立ち去ったのでした。
後から判ったのですが、築地の・・・は、真っ赤なうそで、窃盗犯で、盗んだ他人の保険証でサラ金から金を借りまくっていたのです。前科もお持ちで指名手配中でした。
道理で、金使いも荒く投げやりな態度でした。
ただ、残念だったのはあの時、私は可也勝っていたんですがゲーム不成立になってしまったのです。それだけが未だに残念です。

次回は私とギャンブルの友人達との事を書こうかと思います。ギャンブルについて、この話題はネタがあって意外に長続きしそうです。ラッキー。ギャンブルの話題の嫌いな方、もう少し我慢してください。

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2006年3月19日 (日)

ギャンブル道・京都編

ギャンブルの中で話題が多いものというとやはり麻雀になるとおもいます。そこに人間が関わるというのが物語性を持つのでしょう。

私の場合、マージャンも付き合う人によって全く違う世界を見ていたことはお話しました。その中のひとつでメンバーは殆んど学生だったのですが中に大人の女性が入っている集まりがありました。
その方の自宅で週一くらいのわりあいでやるのですが、広い屋敷に一人住まいの方なのです。正確には違うのですが。
彼女の麻雀のうでは確かで、他で大きなレートのものをやっていることは想像できましたが、学生とわあー、わあー。いいながらやるのが楽しかったのだと思います。
おいしい食事も出してもらえるし我々にとっては本当に都合のいい遊び場所でしたが、ひとつだけ(その一つが大変なことなのですが・・。)問題がありました。夕方から始めたゲームが遅くなりますと、時々、男の人が尋ねてくるのです。
その方は迫力のある中年の男性でいつも数人の頑丈そうな男達を従えてやってくるのです。
ここまでで既に話の流れをお判りの人もおられるかもしれません。
そう、女性はこの男性と婚姻外のご関係にあったのです。この男性はその世界の組織の一つのトップの方です。既に私たちとは顔なじみ?でしたので気楽に挨拶をされるのです。私たちも”こんにちわ。”と挨拶を返しますが、顔の強張りは隠せません。
男性は麻雀の中には入ってきませんが、奥さんの後ろで楽しそうに見ていたりします。
”今日、麻雀どうだったの?”と奥さん。
”今日は少しついていたので500ぐらい勝ったかな?”と旦那。
”そう。じゃお金どうする?”
”明日、銀行にいれといてくれるかな?”
そんな会話が後ろから流れてくるのです。500の後ろにつくのは円ではありません。万円です。一晩で数千円が動くだけの麻雀をしている我々には違う世界です。

男性が別の部屋で将棋をしたりすることがあります。その時は女性はお茶を入れに席を立ちます。そのときには、一人お付の男が代打ちに入ってくることがあります。正に現役バリバリ、そんな風体の男が”宜しくお願いいたします。”頭を下げて卓に。
それまで、誠に騒いでうるさい集まりであった我々は急に寡黙な集団になります。口をついて出てくる言葉はいつの間にか丁寧語。
いつもなら、上がったら”メンタンピン、ドラドラ。満貫~。速くテンボウ出せ。この野郎。”という調子なんですが、”ツモ。2千、4千。満貫です。”それ以外はなにもいいません。
通常、相手に当てられると満貫くらいでも”この野郎ー。何で俺からあたるんだ。イカサマしたんだろー。”と大騒ぎなんです。
この時はお付の男が”ロン。ハネ満です。”といって牌を倒しますと、全員が口を揃えて”凄いのをテンパッていたんですね~。流石ですね~。”当てられた本人まで相手を褒める始末。情けないことこの上ないのです。
よそ行きの麻雀は女性が帰ってくるまで続くのでした。

こんな事もあったんです。実はこの女性は競馬のノミ屋もやっていたのです。麻雀のときににも電話が入り、本人や若い衆が出ていました。
いくらくらいのお金が動いていたのかはわかりません。ただ、この女性に教えられたことがあります。競馬で、このレースは絶対という情報が時々あるそうです。その時、ある筋から連絡が来るらしいのです。その方たちがその情報を何処から得てどう使うのかはわかりません。
私がある時、”確実な情報の時は教えてよ。”といいますと、”いいよ。そのかわり、私のところでは買わんといてよ。”(私は今までもノミ屋からは馬券は買ったことはありません。)その後、あるときその情報を教えてもらった事がありました。
私は半信半疑でもあったのか。買ってはいけないという何かがはたらいたのか。結局、その馬券は買いませんでした。
翌日、新聞で確認しました。結果がどうであったか?・・・・ここではお応えしません。ご想像どうりと言っておきます。いろんな世界があります。偶然だったかもしれませんが、私にはわかりません。
あの時、買わなくてよかったと今でも思っています。でも、少し後悔も。いや、いや、きっと碌な事にならない。

もう二十数年前の物語です。あの頃に縁のあった人達がその後どうなったか、今は知るすべもありません。
次回は、麻雀・東京編です。(この物語は全てフィクションです。)

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2006年3月16日 (木)

さすらいのギャンブラー・青春編

私の今までの人生で京都で過ごした学生時代は自分にとっての宝物です。
京都という町が観光客の町としての表の顔を持つとすると、それ以上に学生の町として、これ程の環境を備えた街は何処にもありません。
特に多感な青春時代を過ごすわけですから、その後の人生を大きく左右したと思います。
勿論、その後の結果は人様々で、私のように余り褒められたものでない人もいますが、同期には随分と偉くなった奴もいると風の便りに聞きます。
私のように遊んでばかりいたものは当然の結果なのですが、だからといって後悔しているかというと残念ながら、全くそんなことは無く人それぞれであると殆んど”悟り”に近いものを会得したのです。

当然、遊んでばかりいたわけですが、私には二つの顔がありました。
ひとつは学生として仲間と遊ぶもの、もう一つは撮影所とかバイトとかたくさんしていましたので自分よりずっと年上の大人の世界の付き合いです。
マージャンひとつにしても学生相手の安いレートのものもしますが大人相手の可也高いものまで様々でした。

手前味噌になりますが学生相手では私のマージャンの腕はレベルが違うものでした。
皆さんの中でマージャンをされる方はよく判ると思いますが、所詮運が大きく勝負を左右するので、どんな上手い人でも凄く下手な人にさえ負けてしまいます。将棋や囲碁はプロが素人に負けることは絶対にありません。しかし、マージャンはプロがド素人に平気で負けることがあります。
ただし、それも回数を重ねますと、はっきりとした実力差が出てくるのです。
私は勝負としての物足りなさもあり、夜のまちで大人を相手に打つこと多くなったのです。
ただ意外なことに危機管理能力がありますので”危険な方達”と打つことや、法外なレートは避けていました。
当時の私はいわゆる”学生やくざ”といわれるようなもので、学生に相応しくなく夜の祇園あたりのクラブにも頻繁に出没していました。風体は学生そのものですので却って祇園あたりではチヤホヤされてお金も払わないで飲んでいたのです。いろんな人生を教えて頂きましたが、そこらあたりの話題はまた別の機会に致します。

私の学生生活は、成績優秀なものですから大学の正門前までは行きます。しかし、そこで人数が四人になると、まわれー右。真面目な友人に四人分の”代返”を頼むと中国語の勉強に向かうのでした。
当時、下宿に帰ると朝から晩までマージャン牌を触っている奴がいまして、何をしているのか聞きますと”ツバメ返しの練習をしている”と真顔で答えるのです。
つまりイカサマの練習をしているのです。私の時代は阿佐田哲也の本は必読書(色川武人としての彼の作品ではなく)でしたので、そんなことを真剣にするものまでいたのです。
勉強もしないでこんなことばかりしている莫迦ばかりでしたが、イカサマの練習ばかりしていた彼がどうなったかは知りません。意外に上級職でも受かって官僚にでもなったかもしれません。遊んでばかりいましたが、勉強する時の集中力もまた凄まじいものがありましたので。
私はもちろん遊ぶだけだったわけです。ギャンブルに関しては、その他、競艇のエンジン音に痺れ、競馬は淀(京都競馬場)にクラッシックを見に行く意外は週末は祇園にある場外売り場に入り浸り、競輪開催日には向町競輪まで阪急電車ででかけるのでした。
マージャンに関してはいろんなことがありましたので、マージャンというカテゴリーの中でお話をまたしたいと思います。

私のギャンブル道は、まだ始まったばかりです。
でも、こんな話、皆さんは本当は面白いのだろうか?せめて読み物としてもう少し面白いものに出来たらいいんですが。面白くない方はもう少しだけ我慢してください。
宜しくお願いいたします。

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2006年3月13日 (月)

さすらいのギャンブラー・立志編

私のギャンブル修行の上で学生時代が全ての出発点と言っても過言ではありません。
それは当然、大学に入ってからのものが殆どです。
そういう意味で中学、高校時代はかわいいもので、賭け事は知らなかったともいえます。わたしの中、高校時代は目立たないおとなしい生徒でしたし、学業もまた目立たない(つまり、出来の悪い生徒)それでいて先生泣かせの子供でした。

賭け事と言ったらたいしたことはしていません。中学の時、学校で大流行したもので”パッパ”といわれるものがありました。ルールは簡単で机の上に自分のお金(コイン・1円)を置き口で吹いて相手のコインの上に載せれれば下になったものが貰えるものでした。唾をぱっぱ、ぱっぱと吐くようにコインを動かす所から付いた名前です。
一対一から複数でも戦えます。
これが学校中に大流行。休み時間や放課後には男子はみんな”ぱっぱ、ぱっぱ”。
まことに汚い学校だったわけです。学級委員も不良も皆仲良くコミニュケーション。
ところが、いいことばかりではありません。当然、賭け事は子供と言えどもエスカレートしていきます。お金が1円の頃は、まだかわいかった。コインは10円になり100円になっていきました。時としては1000円札を折りたたんでやる者まで現れた。
私の成績は?と言いますと、話の流れを理解されておられる皆さんが思われるとおりです。そう、強かったんです。
1日の稼ぎ?が数百円から数千円です。”横綱”などとおだてられ、その気になっていたのも束の間、学校中の大問題に成り全校集会まで開かれるようになりました。
それからの私、ご想像のとおりです。こういうものの結末は決まっています。一番勝っていた奴は先生にチクラレ、終いには首謀者にされ、校長にも怒られ、親は呼び出し。散々でした。あぶら性でもないのに、こってりあぶらを絞られて。
それでも、停学にもならなかったのは、当時は平和でしたし、悪意などは無いことは明らかでしたからと言っておきます。
しかし、おかげで母親には泣かれるは、父親からは”他の兄弟は学校から誉められる事ばかりだが、お前だけは本当に情けない”と三行半を頂く始末でした。

これが、中学時代の輝かしい出来事です。その他、カードや花札でも中、高時代は活躍しましたがページが無くなってきましたのでやめます。しかし、ワルになることも不良グループに入る事もありませんでした。
第一、彼らは私を誘ってくれなかったです。何故だか判りませんが。むしろ、彼らにさえ避けられていたようです。

次回は大学時代に進んでいきます。賭け事のほとんどはここで覚えたのは、他の人と同じでしょう。

最後に、小さなお知らせ。
私には関係の無いどうでもいいことなんだけど、友人が喜んでいますので。
先日、2月21日のブログに書いたことに繋がるんですが、ビジネスの友人のK氏の甥っ子がフィギアスケートのジュニア・世界選手権で優勝しました。本日の新聞にも大きく載っています。家族の事も書いてあり、私が真実を言っていた事も証明されています。
日頃、私の言葉を信用しない悪友達も参ったでしょう。でも、私はうそつきでもいいんですけど。その方がおもしろいから。

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2006年3月10日 (金)

画廊でチョッとひとやすみ

昨日、今日とココログ(nifty)が全く機能せず更新しようとやる気満々だったのに、気分を削がれてしまいました。と、都合の良い言い訳が出来たのですが。
ココログは本当にトラブルが多く謝罪ばかりです。皆さんの使っておられるものはどうでしょうか。有料でこうなんですから、他に乗り換えた方が良いのかもしれません。

今日は予定を変えさせてください。次回は続編に戻ります。昨日、午後より知人の立体の作家さんの個展に顔を出すために銀座に立ち寄りました。
ここを覗いて下さる方には私などより美術全般に造詣の深い方もおられますし、画廊などに良くあしを運ばれる方も。
ただ、殆んどの方は、画廊というとなぜか入りにくい場所というイメージをお持ちではないでしょうか。確かに気楽に入るというより気臥まえてしまう空間かもしれません。
ですが、勿体無いですよ。私に言わせると。
時々面白いものに出会いますし、思いがけず心の琴線に触れることもあるかもしれません。第一、ただですよ。無理やり買わせられることはまずありません。
店のひとの目が気になる?むしろ店にとっては、見るだけでもありがたいお客様なんです。もし、感じの悪い店などあったら、そんな店は碌なものを扱っていないと思います。(値段ではなく作品の質で。)
気軽に覗いてみてください。ぜひお勧めしたい銀座の遊び方です。

というわけで、ついでに何軒か覗いてきました。画廊の数がかなり減ったといってもそこは銀座、随分いろんな作品に巡り会えます。版画や写真展なども面白いものがありました。
最後に目的の先生の個展に顔を出しました。

この方は立体の作家さんといいましたが、一貫したテーマは”空間芸術”です。
演劇や映画が時間の造形であるのに対して美術作品は空間的な表現であり、空間を造形することといわれます。その意味で紛れも無く美術作品です。
”木”などを題材にされ様々な、空間を創り出します。
海外でも積極的に活動されています。
今回の作品は今までと違った色合いで、素人目にはあまりにもシンプルでした。”光と影”あるいは”可視的と不可視的のもの”というキーワードが浮かびました。

このブログに遊びに来てくださる方の中には関西や東海にお住まいの方も居られますが東京近辺の方はぜひ銀座にお出かけの折にはお立ち寄りください。
作家は丁寧な方ですので、ぜひ声を掛けて話をしてみてください。
私の紹介などは必要ありませんが、望まれる場合は私にいってくだされば作家には伝わるようにしておきます。

また、この個展に都合悪い方などは、お住まいのお近くの画廊にぜひ一度飛び込んでみてください。
新しい発見があるかもしれません。私のささやかなお願いです。

最後に今回の作家の個展の告知をしておきます。

”加賀谷武展”  場所・・シロタ画廊(銀座・松坂屋の裏の筋の通り、ヤマハの真裏)
3572-7971  3月6日~18日まで  http://www.gaden.jp/shirota.html

上記HPでご確認下さい。
それから、万が一、作品を見て”自分の部屋にもほしいなあー”などと思われる方がおられましたら、私のHPにメールを下さい。値段、その他、ご相談させて頂きます。
勿論、個展で購買を勧められることは絶対にありませんので、ご安心下さい。
ご友人などお誘いあわせの上、気軽に見にいって頂きたいと思います。
宜しくお願いいたします。

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2006年3月 6日 (月)

さすらいのギャンブラー・小学生編

ギャンブルの是非をここで論ずることはやめます。私はその道を極めたわけではありませんが、人によって毒にも薬にもなると思います。そういう意味ではムキ、不向きがあります。先人達の言葉や物の本によるところ、全ては”止めどき”にあることは間違いなさそうです。
私などが思うには何事にもセンスが必要であり賭け事にも大事な要素だと感じます。センスとは判断力の正確さなどを言うのでしょうが。
私などが兎に角、面白いと思うのは賭け事はその人の性格がじつによく出る事です。君子が豹変する事などあたりまえ、人間ウオッチには最高。そういう私も醜態を晒していた一人かもしれません。

私は子供の頃、何度か迷子になった記憶があるのです。その中で最初の場所とはどこであるかといいますと、”ジャンジャンジャン”と鐘がなる所、そう競輪場です。
私は、時々、父親につれられ来ていたのです。ただ、一言父親の名誉のために申し上げますと、彼はけっして賭け事にのめりこむ人でなく、むしろ綺麗な遊び方をする人でした。手前味噌で申し訳ありませんが、父親はインテリでしたし競輪場でもなぜか周りのおじさん達と格好が違い、父親だけが背広にネクタイをしめていたのを覚えています。
いずれにせよ、私の周りにはすばらしい?環境が整っていたのです。
私の小学生時代、賭け事いえるものの代表は駄菓子屋のくじです。これが私の小学生時代の最大の関心事であり、毎日が駄菓子屋のおばちゃんとの”勝負”でした。
私の田舎町のことはこのブログに何度か書いています。私の家は平坦な土地である駅の傍でしたが学校は坂の上にありました。ただその坂は半端ではなく、要塞のような街にむかいひたすら3キロあまり上っていきます。
片道一時間あまりのその行程に敵の家は4件ありました。(最近このブログの住人の方から、駄菓子やというキーワードを思い出させて頂き、先日帰省した折、思い出をたどり探したところ全て廃業していました。)
その中でも坂の上り口にかかる十三石橋の袂の二件が主戦場でした。
駄菓子屋といってもお菓子にはさほどの興味はなく、くじを引いた結果えられるプラモデルやおもちゃが目的でした。くじといってもいろいろのやりかたがありまして、たばねた紙を引っ張るとあたりの等級が書いてあったり、破ると出てくるもの、舐めると出てくるものなど様々です。
景品がプラモデルなどですと私達の気合も大変なものでした。それが不思議なんですが一等のプラモがなかなかでないんです。くじも少なくなってくると学校にいても心配で心配で、勉強どころでありません。
帰りにおばちゃんの店に飛んでいくのですが残っているのを確認して一安心。
ある時、悪友に見張り番をさせ、家に帰って全財産を持って店に駆けつけました。そこで残っている、くじ全てを買い占めました。皆の前で勝ち誇った自分の姿を思い浮かべひとつずつ引いていきます。
ところがなかなか一等がでないんです。さいごの一枚、皆の期待が集まるその一枚を引いた時そこにかかれていた文字は今でも忘れません。それは鮮やかな赤で書かれていました。
”四等”でした。私と兄弟分たちの唖然とした顔を見たおばちゃんの一言。
”あたり、なかったね。”
あの時から、私の人間不信が始まったといっても過言ではありません。数十年の時を経た今でも、昨日の事のように思い出されます。

その後、この話には後日談があります。わたしのものにならなかった、あのプラモはその店のおもちゃ売り場で500円で売られていました。”ぼくのプラモが・・・”私は小学生にして早くも世の中の不条理を充分に教えられたのでした。
その後、私達とおばちゃんの仁義なき戦いがしばらく繰り広げられたことはご想像にお任せします。

駄菓子やの籤は正しくギャンブルの原点だと思います。
この次元の話が続きそうです。とても付き合いきれないと思われる方は少し時間をおいてから覗いて下さい。
宜しくお願いします。
次回は中学、高校、大学編へ突入します。

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2006年3月 3日 (金)

さすらいのギャンブラー

皆さん、こんにちわ。お元気ですか。如何お過ごしですか?それでは、また。
挨拶だけの記事の日があってもいいのに・・・・。
何でもいいのでコメント下さい。なんて書けたらと思いますが、創造力の貧困さを
感じる日々です。
トリノも終わりましたね。今度はワールドカップですが、それまで繋ぎの記事を。美術、演劇、文学、
ネタはあっても文章に纏らないので、・・・・・(この間、パソコンのまえで長い沈黙。)・・・・・・

決めました。私のギャンブル人生について書かせていただきます。
私の人生そのものがギャンブルであるともいえますが、その事を書き出すと際限がありませんので
賭け事(マージャン、競馬、競輪、競艇、パチンコ、など)の思い出の中から幾つか書いてみます。

私も人並みあるいはそれ以上に賭け事に夢中になった時期がありました。ましたという過去形は
今は卒業といったら格好いいですが、全くやりませんし、興味も湧かないのです。
女性の方から見たら男とはなんと馬鹿な人種だと思うでしょうが、今から思うと賭け事に夢中の
頃が懐かしくできることならあの頃に戻りたいとさえ。

当然、失敗に関しては枚挙に遑がありません。ここに書けない事も多くあります。
書けない事の方が面白いのはあたりまえですが、やはり、書きません。あしからず。
今回は数回にわけて書いてみます。脱線して、賭け事というテーマから外れる事も考えられますが
お時間の頂ける方はお付き合い下さい。
初回は、”ギャンブラー・小学生編”ということで、私の原点に迫ります。

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