満開の桜に想う・ある小さな出来事。
桜、好きだ。誰しもが好み賞賛する故に”私は桜が大嫌いだ”と言いたいのだが、理屈抜きに好きなのだ。
淡いピンクの色彩の中に身を置くと、えもいわれぬ恍惚感をあじわう。まして、沸点に達した途端、散り始める危うさのなかには自ら脚色し演じたドラマの幕引きさえ感じる。
今日、歩いていても電車の車窓からも桜の開花が目に附く。
忙しさに追われて”今年はそういえば桜観たかな?”などと思った年もあったが、殆どの場合どこかに花見に出かけていた。京都にいた時は、円山公園のシダレザクラ、嵐山、加茂川べり、仁和寺の遅咲きの桜。そして特に好きだったのは、名所ではなく嵐電(ランデン、京福電鉄北野白梅町線)の鳴滝周辺の桜のトンネル。この時期にはただそれを見たいがために乗り込み何度も往復していた。また、奈良の吉野、山が桜に埋まる風景もわすれられない。
東京も上野公園、千鳥が淵、市谷界隈。なかでも好きなのは、地下鉄丸の内線に乗っていると四谷で僅かながら地上に出る、その瞬間目に飛び込んでくる桜。駅の傍に咲いているなんでもない桜だが、その演出効果によるサプライズは絶大。
数えても切がない。また、名所に限らずいたるところに素晴らしい桜並木がある。学校や近所の庭にも。
人々は皆それぞれの思いを桜に重ね、託すのかもしれない。
私にはこの時期になると、思い出すことがある。忘れられない、小さな、小さな出来事だ。それは今からさかのぼる事、ちょうど十年前ぐらいのことである。
私は当時、都内から郊外のT市に引越してきていた。散歩コースとして多摩川ぞいを歩く事が常で、その日も家人とともに暖かな日差しに誘われ狭い棲家から這い出してきたのだった。
堤防横の道は桜並木が続いていたが、今まさに満開の時を迎えていた。桜の名所でもなく人々が集う公園でもないため宴会目的の人もおらず、道行く人が時々立ち止まって見上げる位のものである。
余りに見事な桜の洪水の中を独り占めできる喜びに浸っていた。
その時ずっと向こうから一台の自転車がやってくるのが見えた。しかし、自転車はなかなか私達の前までやってこない。時々止まっては進み、進んでは止まると言う具合だった。きっと自転車に乗りながら桜を楽しんでいるのだろうくらいにしか思わなかった。
やがて、自転車はすぐ近くまでやってきて止まった。乗っていた男の人は六十代後半に見えた。頭には白いものが多く、細身の体からはどこか穏やかな雰囲気が溢れ出ていた。
私と眼が合った。彼は軽く会釈すると、遠慮がちに胸のポケットから一枚の写真を取り出した。そして、その写真をいとおしむように両手でつつみ上に向けたのだった。その先には満開の桜が咲きほこっていた。
私たちは声を失った。その写真が黒縁の額にはいっていなくても全てを察することは容易だった。その写真の人は女性だったが年齢を重ねた人に見えた。彼の奥さんだろうか。
その人が鬼籍に入っていることはあきらかであり、写真は真新しいものに思えた。
彼は言葉を発してはいなかったが、その写真と会話をしてるかのようだった。彼の表情は笑っているようにも見える。やさしさに溢れている顔だ。
きっと写真の女性は桜が好きだったに違いない。春になって共に見る約束をしていたのだろうか。その約束を果たす事無く逝ってしまったであろう女性の為に、彼は一人、その約束を果しにきたのだろう。
いや・・・・、紛れも無く二人は今、一緒にこの満開の桜を楽しんでいるのだ。彼の想いが伝わらないはずは無い。
どれくらいの時間が流れたのだろう。やがて、彼は私たちの前を通り過ぎていった。しかし、また時々立ち止まるのが見える。きっとまた写真を取り出しているのだろう。
桜の中に浮かぶその後ろ姿は一枚の絵のようにも見えた。
私たちは、その姿が見えなくなるまでその場を動こうとしなかった。横にいる家人の顔が幾分、紅潮して見えたのは桜の色に染まったばかりではなさそうだった。
私は夢を見たのかもしれない。淡い、ピンクの世界の。
桜の季節はいろんな物語を運んでくる。私はそれがどのようなものでも、受け入れることが出来そうに思えた。
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