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2006年1月29日 (日)

東京の休日(ローマの休日のようにはいきません。)

今日は私の休日でした。事務所は土曜日は休みなのですが、中小零細にとっては休みは死を意味するようなもの。何かしら用事があるというか、なるべく自宅にいたくないというか、兎に角、山奥の棲家から片道2時間かけて渋谷の事務所に出てきます。

出掛けに、厭味の一つも言われるかと思いましたが、実はこう見えても普段は涙ぐましい努力はしていますので(中身についてはひかえさせて頂きます。)明るく?送り出していただきました。

午後から事務所に出て、先ず銀座の画廊に知人の画家が個展を開いていたので顔を出しました。私にはよく解らない抽象ですが、休日だからか、あるいは作家の人脈からか、お客さんはそこそこ入っていました。
その後、これも半分義理で、飯田橋の画廊でやっている若手の版画家の3人展に顔を出しました。これまた抽象です。作家が好きでやっているのだから私が文句を言う筋ではないけれど、価格を付けているのなら売ることも考えたらといいたくなる。
技術は素晴らしと思うけど、このてのものは溢れているし、素人の意見を言わせてもらえばあなたのアイディンティティーは、個性はどこにあるのですかと聞きたくなる。
”金のために魂は売らない”というくらいに売ることを度外視しているものであれば却って魅力的ではありますが。

その後、5時から赤坂見附のプリンスホテルでのシンワ・アートオークションに予約していたので顔を出しました。私などは殆んど冷やかしですが、数千万円から数億まで動くオークションです。流石にジーパンではいけない雰囲気ですし、年齢的にみて私などは若造の部類です。このオークションの雰囲気については私の過去のブログの記事に書いたものがありますので興味のある方は読んでみてください。
参加してみたい方は一度私の事務所にメールをいただけたらと思います。一度経験してみるのも面白いと思いますが、ひとつだけ問題があります。
私などは、いつもそうなのですが一週間くらい働くのが莫迦らしいなるくらい自己嫌悪になります。それを経験したい方はぜひどうぞ。

赤プリのそれも2時間で終わり、その後長い時間を浪費するべく我が棲家へ帰ってまいりました。休みなのか、仕事なのかわからない一日でした。
そういえば、今回は、最近の銀座での画廊のオープニングを描く予定でしたのに、自分の休日の一日になってしまいました。すみませんでした。
次回は、しっかり描きます。・・・・・描けるといいなあー。

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2006年1月24日 (火)

ソーホーの座標軸

前回イーストビィレッジのコンテンポラリーアートの作家達のことを描きましたが、今日は私の関係する企画画廊の平素のオープニングパーティを描いてみようと思います。刺激的なものを期待される方には事前にお許しいただきたいと思います。

その画廊はワシントンスクエアーから南に1ブロック下った、大通りに面した雑居ビルの3階にあった。夕方になり招いた客が次々とやってきた。
今日の作家の作品であるアクリル樹脂を吹き付けた立体を壁づたいの四方に配し、フローリングの床の上で小さなパーティが始まった。
今日のパフォーマンスはトライアングル奏者という趣向であった。
彼の奏でる音が周囲の作品と重なり共鳴をはじめる。単調な繰り返しかと思えば、時には激しく打ち続ける。彼の額に汗が溢れ、その高い鼻梁をつたって雫となって流れている。
その雫がライトに照らされ輝きを放っているのが見える。
彼の指は、ある種のエロチシズムを感じさせる。この部屋の中の密度を高めてゆく。
私たちが緊張から解放されるのは、彼がその手の動きを止めるまで待たなくてはいけなかった。

灯りがつくと人々は堰を切ったように快活に話し始めた。
今夜の客は3,40人というところだろうか。ワインとビールに軽食を用意した簡単なものである。それを口にしながら品のいい会話を楽しんでいる。
ほとんどが白人であり、ラテン、アングロサクソン、ユダヤなどで占められる。皆、質の良い服装を纏ったおしゃれな人達である。
知的な雰囲気を漂わせ私と目が合うと愛想の良い笑顔で応えてくれる。男女とも教育水準の高い人達であり、この街の両極の一方に位置する人達に近い。
彼らは作家と作品に賛辞の言葉を惜しまない。本心は別にして。

外の寒さも、緊張感もこの場所には存在しない。居心地の良い空気に満ちている。

私は最後の客を送り出すと、やたらに頑丈なドアを閉め外にでた。街の喧騒は、はじまったばかりであった。                                            (11月4日、PM11時 ソーホーの画廊にて)

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2006年1月20日 (金)

ニューヨークのエンジェル達の つづき。

(前文より続く)

日が随分と短くなった夕方、ワシントンスクエアーでクリストフと待ちあわせをしていた。遠目から私を見つけると彼は小走りでやってきた。彼は私の知っている彫刻家の中では珍しいくらい真面目で親切な男であった。約束の時間を守る数少ない友人であったが、それは彼がポーランド系ユダヤ人であることと無関係ではないのかもしれない。
今日、彼にイーストヴィレッジの画廊のオープニングパーティに誘われていたのだ。彼の作品も含めた仲間の現代彫刻?の展覧会であった。

画廊とは名ばかりの朽ち果てた倉庫の中に入っていった。壊れかけた鉄のドアを押して入っていくと、そこには異様な空気が流れていた。
先ず、彼らの身なりに圧倒された。市販されたものではない、独特の色彩とデザインである。決して綺麗といえるものではないが。
それまで、私の知っている画廊のオープニングは富裕層やヤッピーといわれるヤングエリートがお客の事が多かったのである。故に、身なりも仕立てのいいものを纏っていた。多くはウォール街あたりのビジネスマンであった。

パーティーなどといっても乾杯があるわけでもなく、いつ始まったかもわからず、またいつ終わるとも定かではなさそうだった。勝ってきままにビール片手に話している人の中の僅かばかりの空間で、誰にも注目されないパフォーマンスをしているものがいる。怪しげな占いのようである。
ここでは飲み物も食べ物もでない、自分で持参するしかない。酒かドラッグか、酔った大柄の男が騒ぎ出し、展示されている作品を壊している。誰も止めない。それもありなのだ。
大声で言い合いのすえ、摑み合いを始めるもの。その横で静かに作品を眺めている人。
私の頭の上をビール瓶が飛んでゆく。何本も。ビンの割れる音が心地よい。

滅茶苦茶のパーティー。でもこんなおもしろいものは、なかなかお目にかかれない。
あまりの騒々しさに外にパトカーが来た。近所の誰かが呼んだに違いない。私は”少しやばいかな”と思ったが、警官も中には入ってはこない。冷静な関係者が玄関で対応している。
いざとなれば、裏口もある。

ここにいる彼らの行動はあまりにも無秩序である。そして、この部屋の中といったら、もしここに保健所がきたら全てが消毒液の中に沈められるのではないかと思うくらい汚い。
しかし、このエネルギーはなんだ。この中から、新しいものが生まれてくるのだろうか。
私は飛び散るペンキから逃げ、倒れてくる作品の鋼材から身をよけながら、この宇宙に酔っていた。それともビールを飲みすぎたのだろうか。

一瞬、ここで死んでもいいかなと思った。どうせ東京を逃げ出してきた身だ。このまま何処までも逃げ続けたかった。まどろみと覚醒が交互にやってきた。
サイレンの音が遠くで聞こえる。誰かがまた、火をつけたのかもしれない。

(11月26日、AM3時、イーストヴィレッジにて。)

この文章を書き写した後、これを読んで皆さんがこのアパートを出て行ってしまわないかと心配にもなりましたが。どうぞ、留まって下さいね。

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2006年1月19日 (木)

ニューヨークのエンジェル達

私がこの街で付き合っていた芸術家、とりわけ美術関係の人々はそれぞれが、えたいが知れない、それだけに危険な魅力に溢れていました。この頃のニューヨークはキュピズムもリアリズムも何でもありでしたし、現代アートも華やかな輝きを放っていました。
五番街の画廊で脚光を浴びる作家、我々のようなソーホーに展開する企画画廊が取り扱う作家、そしてどちらにも関係なく自由気儘な創作活動をする作家、いろんな人が蠢いている町がニューヨークでした。
その生態は、当時または現在の私の知る日本の美術家たちとは別世界のようでした。事実、日本からやって来る画家や彫刻家を彼らに引き合わせますと、日本の知人の多くは人が変わったようにポジティブな動きをしていました。

時々このブログにも書いていますが、芸術家の多くが住んでいたソーホーも(もともと、ここは倉庫が多かったので芸術家が家賃の安さもあって入り込んで所です。)土地の高騰と共にこの場所を追われイーストリバーの近くやインド人の多いイーストヴィレッジに移り始めていました。
私も、またアッパーウエストという治安のよい街から、この廃墟だらけの街に移り住んだ経緯はお話した通りです。ただ、私にはこの町もここの住人達も刺激的な魅力あるものでした。

この場所に棲む作家達のことを少しばかり、私のメモより転記してみます。
私の雑文をお楽しみ下さい。ただし、楽しくなくても責任はもちません。・・・・つづく

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2006年1月16日 (月)

雨の日の美術舘

(前文よりつづく)

絵の描写を言葉にすると、このようになる。
白人と東洋人が美術品を品定めしている絵。そこには白人と東洋人の上下関係がはっきりあらわれ、、白人の背中にいやらしさがこみあげるように描かれている。
水かスープをガツガツと飲む老いた黒人、肉を解体する男、聖書を脇に抱え妙に醒めた顔でキリスト像を眺める老女など、彼らの生活を描いたものが多い。
また、思想的な表現の絵は、星条旗に向かって拳を突き上げる黒人の男。白人の兵隊に馬乗りになった老女、彼女の手元には小さな星条旗がはためいている。
ふんぞりかえる白人の顔の絵は外面はきれいだが、反面醜く腹黒いものとして描かれている。

あまりにも強烈なメッセージが伝わってくる。これらの絵には共通して感じるものがある。
彼らの悲しみ、苦しみ、嘆きである。そして怒りである。
私にも彼らの絵は、はっきりと語りかけてくる。絵そのものの出来など問題にならない。
生命力に溢れ、自己表現が明確に伝わってくる。

私は絵からこれ程の衝撃を受けたことはなかった。この空間は私の体を心底震えさせてしまう畏れの場所である。権威、差別なるものに屈しない意志を感じる。

ここにある絵は決してMOMAやメトロに掛かることはないだろう。商品として支持される事も無いだろう。しかし、、綺麗なだけが絵ではない、絵は時として凶器にもなるかもしれない。
この美術舘は、まちがいなく私に新しい発見をもたらしてくれた。
さあ、これからハーレムに繰り出そう。この街は私を受け入れてくれるだろうか。
(11月13日、ハーレム、スタジオ・ミュージアムにて)

なるべく当時の文章に忠実に転記しました。自分で読み返して、私のブログにコメントくださる皆さんにお勧めできる場所ではないと思いましたが、かの地も現在は治安が昔と比べると格段によくなっているらしいですね。
逆にいうと私がもし今、ここを訪れると全く違う感想を抱くかもしれません。緊張感の中で味わうことは二度とないでしょうから。
次回は、この街のアーティストたちのことを書いてみたいとおもいます。

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2006年1月15日 (日)

雨の日の美術舘

前回、MOMAなどの事を書きましたが今回は少し雰囲気の違う美術館のお話です。これを書くのに私は二十年前に附けていた雑記帳を探し出しました。
今、読みますと可也、気恥ずかしい思いになりますが、ほとんどそのまま転記させていただく事をお許し下さい。
また、現在の状況との違いもあるかもしれません。その時は、ご存知の方はぜひ教えて頂きたいとおもいます。

日曜日だというのに、この美術舘の客は私、ただ一人である。MOMAやメトロポリタンとそんなに離れているわけではない。別世界のような静けさである。
私の靴音だけがこの静けさを引き裂いていく。外は大雨であった。
これでは誰も寄り付かないかもしれない。ハーレムのスタジオ・ミュージアムでの私の時間だ。しかし、人影がないのは雨ばかりのせいではなく、そこにある作品によるところもあるらしいと、後になり気づかされることになる。

今日、ここに着いた時には表の鍵はしまっていた。中に灯りが点いているところを見ると昼食の時間は鍵をしめるのだろうかとおもったが、ドアのところにカードが掛かっていた。
土曜、日曜はPM1時から6時までと書いてあるではないか。なんとのんびりしている事よ。
開館まで15分、どこへ行くあても無いのでその場で待つことにした。
傘では防ぎきれないだけの雨が吹き付けてくる。僅かの時間なのに随分と永い間、そこに立っていたような気がした。
開けてもらって、ようやく入った時にはスニーカーの中に水が浮かんでいた。

そこは小さな簡素な美術舘だった。
しかし、ここにある絵に囲まれ、椅子に座っている間に何と私は多くの声をきいたことであろう。黒人の画家によって描かれた作品は、私が今まで聞いたことも無い程の能弁な語りを聞かせてくれた。
作品の中には女性画家のキャンパスから湧きあがる色彩を感じたものや、額の中から木の枝が這い出してくるようなイメージの豊かさを感じさせた。
しかし、私の眼を捉えて離さないものは他にあった。

ここまで書いて、自分の過去の文章に忠実に従ったつもりですが、今一度整理が必要なようです。次回この続きを書かせていただきます。お待ち下さい。

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2006年1月12日 (木)

ニューヨークの美術舘遊び

前回の文で急に絵に夢中になった経過を書きましたが、それからの私の美術舘めぐりは、ほとんど病気。ともいえるものでした。ただ、芸術に目覚めるというよりは遊びを一つ見つけたような物でした。
私の性格上、自分が納得するまで終わりがなく、着地点は予想もつきませんでした。

外国で美術舘に入る時は、観光の一部のような気持ちがどうしても拭えませんが、自分が棲んでいる町で、しかも歩いていける距離にあるとなると、美術館といえども特別な場所ではなくなります。
私にとって、MOMAやメトロポリタン美術舘、五番街の画廊などはセブンイレブンかローソンにいくようなものです。
私にとっていかに身近な場所であったかといいますと、市立美術館とメトロポリタンの入場回数はそれぞれ50回以上だと思います。もっと多いかもしれません。しかも、そのほとんどは入場料は払っていません。この理由を知っている人は多いと思いますが、欧州が絵画に限らず芸術に国家の予算を多く割くことによって客が入りやすくしているのに対して、USAは税法のバックアップもあり民間の寄付で維持、運営されています。

MOMAも最初3回くらい払ったのですが、もう充分貢献しただろうと思いそれからは、木曜日の夕方5時からしかいかなくなりました。なぜなら、その日、その時間は原則、入場料は制限はありません。当然、私のような人が多いのですが、この国の美術に対する捉え方が窺い知る事が出来ます。(半月ばかり前、NYに永く棲んでいる友人が一時帰国しまして聞いたところMOMAの建て替えがようやく終わったことを聞きました。)

メトロポリタンもご存知の方もおられると思いますが入場料は原則決まっていても必ずしも払う必要はありません。”私は学生です。”といえば入り口はフリーです。(NYは国中から画学生が集まってくるようで、模写している若者がほんとに多い。)お金を要求されることはありません。
最近、一時帰国のその友人に聞いた話ですがその友人の叔父さんは50代ですが、いつも払わないではいるそうです。まさか”私は学生だ”とは言わないでしょうが、何といってはいるのでしょう。聞きそびれてしまいましたが、おそらく”私は絵が好きで勉強したいがお金は無い”ぐらいのことをいえば大丈夫なんでしょう。
つまり、美術だけでなく芸術全般に関しての考え方が我々とはかなり違っています。残念ですが。
ただ、私のメトロポリタンの入り方は少し違っていました。学生という必殺のうそを吐くこともあったのですが、私は6,7回はお金は払いました。現在の事はわからないのですが当時、お金を払うと小さなバッジをくれました。それを胸に着けていると出入りが自由の証なのです。美術舘があまりにも大きいので時間無制限でということです。
私はこのバッジに目をつけまして、というのは、このバッジは曜日ごとに色が違うのです。
私はすべての色を揃えました。それをつけて、午後から堂々と入っていくのです。

でも、私はアンポンタンなものですから、ときどきバッジの色をまちがえるのです。曜日が違えば無効なんですから。でもそんな時は背筋を伸ばして”僕は学生です。”

次回はこの街であまり皆さんがいかなかったであろう、私の思いで深い美術舘のお話をさせて頂きます。

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2006年1月 8日 (日)

美術舘というドラマ。

日本にもたくさんの美術舘がありますが、皆さんそれぞれ拘りと思い出がある大好きな美術舘を心の中にお持ちだと思います。
私は日本でも知らない所がたくさんありますが、自分なりに好きなものがあります。人それぞれ絵画、陶器、版画、工芸など好みも違うのでどこが一番かなど論ずることもできません。まして美術館の大きさや収集品の有無できまるものでもありません。
ただ、私などが好きな美術舘の定義はその美術館の環境、建物の外観などに大きく左右されるといっても過言ではありません。
もし、美術品にたいする素晴らしい審美眼を持っていたら作品そのものが、好きな美術舘を決める大きなファクターになると思いますが、私にはそれがありませんので。

実は私は昔の話ですが、美術というものに興味がありませんでした。というより大嫌いなものでした。なぜかというと話を少し遡らなくてはなりませんが京都の学生時代に演劇、映画なるものにのめり込んでいました。東京に上京後も新劇の劇団の研究生として朝までスタニスラフスキーやブレヒトを論じ、肉体訓練で体を極限まで鍛える毎日でした。
余談ですが、私が上京したときの体重は85Kgでしたが一ヵ月後には62Kgまで減っていました。毎日3食、腹いっぱい食べてです。そうしないと訓練はもちませんので。因みに私の現在は身長178Cm、体重は・・・。元に戻りつつあります。

私の興味は動的なものに限られ、美術とは何とつまらない、ドラマの無い感激の無いものであるかというおもいだったのです。劇団の高学歴の友人達(学歴の話は無意味ですが、一言世間の皆さんに言わせて頂ければ、一応高倍率の研究生試験をくぐりぬけてきた同期たちはT大でシェクスピアを専攻していたとかの秀才ばかり、そんな人間が皿洗いのバイトなどをしながら芝居を続けていました。酒を飲むと、親に対する懺悔も少しだけ・・・。)
の中には美術の重要性を説くものもいましたが。

私が絵画の中にストーリー性やドラマを見出すのは芝居をやめ日本を脱出するまで待たなければいけませんでした。20代も後半に差し掛かっていました。
NYに逃げ出した私は、このブログの中にも書いていますが、夕方からのブロードウェーや深夜のグリニィッジに出かけるまでの日中の時間つぶしに美術舘めぐりを始めたのです。

私がMOMAに入ったときです。一枚の絵に釘ずけになってしまいました。どこがいいかなど理由など存在しません。ただ其の絵に圧倒されたのです。号数の大きさもありましたが、なによりその色彩、無駄のない力感が知識の無い私にも感動を与えてくれたのです。
其の絵は、マチスのダンスでした。マチスと言う名もそこで初めて知るくらいの美術音痴の私でした。
しかし、その後、もう一枚の”ダンス”をみるためにレニングラード(今のサンクトペテルブルグ?)のエルミタージュにいってしまうくらいですから私ののめり込みは異常とも言えるものでしたが。

長文になりすぎました。私の事ばかりを書いてすみません。次回はNYの美術舘について書きたいと思います。

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2006年1月 5日 (木)

大好きな美術館。

私は美術そのものが本当に好きかと問われたらYESとは言わないかもしれません。
なぜならよくわからないからです。大学で美学を学んだ人たちのように知識は無いし、尽きる事の無い興味もないのです。
ただ、訳も無く感動した一枚の絵画があり、身を置くだけで嬉しくさせてくれる美術館という空間が私を虜にすることがあるだけなのです。知識は必要な時がありますが、得てして感性を阻害してしまうのではないかとおもうことがあります。素人の浅い考えですけど。
最近、名のある、美術評論家といわれ方達とお話させていただく事があるのですが、一度聞いてみたいのです。美術評論家とは何ぞや。何の為に必要なのか。と。絶対に言いませんけど。

皆さんそれぞれ好きな美術館があると思います。バブル以来、日本にもたくさんのそれが誕生しまして、最近でも時々ニュースにとりあげられることもありますが、今、地方につくったものを含め大変苦しんでいると聞きます。
特に抽象を中心にした美術館が入場者数の激減で閉鎖においこまれたり、経営が困難になっているとのことです。そもそも、見る側にその文化が定着していないのですから当然の結果かもしれません。
美術館も淘汰され価値あるものだけが残っていく時代なのかもしれません。

私は一般の生活者というレベルのなかでは美術館を知っている方だと思いますが、それでもまだまだ私の知らない面白そうなそれがたくさんありそうです。このブログでもみなさんに教えていただく事もよくあります。今後もいろいろ教えを頂きたいと思います。
次回は私の好きな美術館とその思い出を書かせていただきます。もちろん私ですから美術館の作品の評価や建物の説明は殆どありません。それは、HPなどを見ればすむことですし私などより知識のある方にお任せいたします。

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2006年1月 2日 (月)

初夢は富士山ではなかった。

あけましておめでとうございます。
皆さんどの様な新年を迎えておられるのでしょうか。
私は只今、箱根山中にて怠惰な年末年始をすごしています。ここ数年、恒例にしていまして、などと書くと優雅に聞こえるかもしれませんが慎ましく過ごしています。
本来ならば故郷に帰らなくてはならないのですが、まして私の故郷は今年は季節はずれの大雪でして、雪降ろしくらいはするのが当然なのです。
ただ、余りの寒さに家族が風邪をひく事が多いため数年前からこのようなかたちになりました。
田舎の両親に申し訳ないなと思いつつ、箱根の白濁した湯に入っていますと親不孝にも田舎の事などすっかり忘れ、また年頭に当たり、この大変厳しい仕事の難局をどう乗り切るか今年のプランニングを起てるということも何処かに行ってしまいます。
どうしようもないこの性格、なるようにしかならないと思ってしまいます。
人生は一寸先は闇、だから怖くて面白い。が私のモットーなのです。これを言うと皆に呆れられてしまうのですが。

私が日本に生まれて良かったと思う瞬間は温泉に入った時ですが、同じ気持ちの人が多いのではないでしょうか。東京から来る時は天気もよくて運転もスムーズでしたが、元旦から崩れ始め道が心配ではあります。家族相手に飲んだくれて呆れられていまして、今日も駅伝の応援に出た以外は怠惰な時間を過ごしています。

明日は東京に戻ります。こんな私ですが今年一年お付き合いの程、宜しくお願いいたします。皆さんの知恵をお借りして、もう少し面白いものにしたいと思っていますが。
いつも思ってはいるのです。ただ実行と能力にやや問題あり、です。
年頭に当たり、もう少し更新を早くすると宣言します。と言い切りたいなー。

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