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2005年9月28日 (水)

同窓会

先日、高校時代の同窓会に出席した。 
なんと30年ぶりである。今までも何度か誘いは受けながらも、日本にいない時は仕方ないとしても、ほとんどは自分の意志で断ってきた。くだらない拘りのためである。それでも誘い続けてくれる級友たちへの感謝もあった。
しかし、そこに脚を向けた大きなものは、危機感であったと思う。

最近、歳を感ずるようになった。絶対に肯定したくないものの一つであったのに、私にも避けられない領域らしい。そう感じたとき、急に年齢的にも今しかないと感じたのである。
さて、会った友人達は、どうであったかというと、顔を見ただけでは名前が出てこない。体型も、頭の上の方も、かなり変わっていて、名前を聞いただけでは信じられない有様である。しかし、それは向こうも同じ、私のことを見て”太った、太った、別人みたいだ”と。確かに昔は背が大きいだけで、随分痩せていたものだ。
しかし、話し出すと皆10代にもどって、30年前の高校生が現れる。

級友達をみて感ずるのは、今までの人生に達成感と満足感を持っている事を感じぜずにはいられない。私には之が全くと言っていいほどない。自分を誉めてあげれることもない。許す事もできない。その意味において疎外感を感じた時間であった。ただ、人間にとって過去のみが全て許す事が出来ると信じられる心地よい空間であった。早めにその場を失礼した私に”これを最後にしないでくれよ。”と、声が背中から聞こえた。外に出ると街の喧騒が私を現実に引き戻した。

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2005年9月22日 (木)

喧嘩するほど仲がいい!  

先日、電車の中のこと。私が本を読んでいると、70歳は越えただろうと思われる老夫婦が入って来た。二人は、運良く座る事ができたが、おじさんの方はずっとしかめっ面で、其の内おばあさんに小言を言い始めた。声も大きくなり、終わる様子がない。当の、おばあさんは、ただ頷いているだけ。そのうち明大前が近づき、おじいさんは、おばあさんを怒鳴りつけて、急き立ててでていった。ただ、その時、たくさんの荷物をおじさんが全て一人で持ち、おばあさんには、何も持たせなかった。私には、おばあさんが微笑んでいるように見えた。

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2005年9月18日 (日)

アートオークション

昨日、Sオークションにでかけました。場所は赤坂プリンスホテル。画廊や画商がどんどん廃業していく、この業界に在って、このオークションだけは逆に大盛況。S、などは最近、大阪で上場したほど。新聞に採り上げられることも多く、最近ではルノアールの絵が3億2千万円くらいで売れて翌日の紙面を賑わせていた。また、梅原龍三郎の絵が2億数千万円で売れた時もあった。いづれの時も、わたしは最前列で絵を見ていた。

私などは、もちろん、パドルをあげることもなく、観客でしかないのだが。この日は最高額はピカソの絵で1億9千万円で落札された。観たことのない人のため、どんな様子か少しお話しよう。作品は、日本画、洋画などが次々と落札されていく。値段のスタートは作品によってさまざま。上げ幅は、最初の金額の5~10%で上がっていく。だから、高額の物は、1千万単位になり、競りあがる時、会場は静まり返り、緊張に包まれる。勝負がついたときには、会場に溜息がもれる。

私などが見ていても判ることがある。同じ作家でも高い値が付くものと、そうでないものがあり、あきらかに、出来が違う。売れる傾向というものもあるのだろうが、なんとなく判って来る。また、来場者のほとんどは富裕層であり、私のように、社会勉強にいっているものは、先ずいない。世の中、生活が苦しいと言っているのに、とんでもない世界であることは間違いない。こんな世界を覗いてみたい人は、私に連絡を下さい。時に拠っては、ご一緒できるかもしれない。ただ一言、私は参加した翌日から暫くは働くのが嫌になりますが。

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2005年9月15日 (木)

ビックサイト

TBを頂いた。トミタさん有り難うございます。ビックサイトには、いろんな思いがあって、展示会の間は毎日かよいますが、それ以前に二ヶ月前からクライアントと何度もうちあわせで、やっと、ブースも業者さんに発注して。正直、何度も通って嫌に成る程でした。でも、観客として、行くときは楽しかったなあ。仕事の緊張感から開放されるからでしょう。これからは、いろんなものに出会いたいです。

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2005年9月12日 (月)

イノセントハウス その4

私の棲んでいたアパートの人達についてです。

そこの住人はほとんど現実離れした人々です。ヨーロッパからの人が多かったのですが、彫刻家、画家、舞踊家、音楽家といわれる人々でした。モダンアートも超現実主義もキュピズムもあり、またそれらの全てを破壊するのだという意味もうずまいていました。また芸術家という人以外のものも存在し、部屋代を払えない為、アパートの壁を塗ってチャラにしてもらっていた左官業のドイツ人もいましたし、トイレや風呂を直しているポーランド人の配管工もいました。全ては自称です。得体の知れない人の集まりです。そして、当然私もまたその一人でしたが。

夜になると皆があつまってきます。近くのギャラリー(銀座やニューヨークの五番街にあるものをイメージしないで下さい。ただ汚いだけの倉庫です。)のオープニングパーティーに出掛けた時などは、酒やドラッグの影響もあり、大騒ぎになり、近所の人が呼んだパトカーが来るとすぐ逃げ出すことなどはいつもの事でした。

人のお祝いに駆けつけるのに、そこで、先ずするのは裏口のカクホでした。皆、お金はありませんが楽しみ方はよく知っています。ビールが飲みたくなれば誰かのパーティーにもぐり込みます。ディスコはお金など払った事はありません。誰かが手に入れてきた無料券で朝まで騒げます。お金が必要なときは、友人の服でも平気で持ち出します。そんな毎日でした。自堕落といえばその通りですが、極度の緊張感の中で自分たちの可能性を求めつづけ信じることが出来る空間でした。ここには私のセンチメンタルな20数年の人生などくつがえしてしまうものが存在していたのです。

このアパートの名前は“イノセントハウス”といいました。

私がイノセントの意味を“愚か者”と言ったのは、幾分の揶揄をこめた自分の体験からなのです。しかし決してネガティブな意味ではなく、私にとっては“輝ける城”なのです。この後、ニューヨークで画廊の仕事を手伝ったりするようになるわけですが、つきる事の無い話ですので、今回はここで終わらせて頂きます。“イノセントハウス”の事、おわかりくださったでしょうか。  長文のお付き合いありがとうございました。 次回はまた別のテーマで。

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2005年9月10日 (土)

イノセントハウス その3

先日はニューヨークに向かうまでをお話しました。続きです。

ニューヨークでの私の生活は、このようなものでした。昼に起き出すと先ず美術館へ行く。(マチスやウオッホールに嵌っていました)夕方になるとブロードウエーでミュージカルを見る。(午後3時か4時になるとタイムズスクエアのチケット売り場で半額のチケットを求めて並びます。)深夜になるとグリニッジのバーへ。ポップコーンとビールで5ドルの店で朝までジャズに浸る。(当時、東京で高額な入場料を払って見るミュージシャンも聞けました)

これを4,5ヶ月、毎日続けました。美術館は行き尽くし、何度も同じ所に脚を運びましたが新しい場所を求めて画廊に行くようになりました。ジャズもハーレムやイーストハーレムにまで脚を伸ばすようになっていました。ミュージカルもオフブロードウエーに新しいものを求めました。

そして当然、お金は無くなります。当時、私が住んでいたところはマンハッタンの中のアッパーウエストと言う所です。環境の良いところと言われユダヤ人の多い町でした。(ジョン・レノンが殺された場所でもありオノ・ヨーコが住み続けるダコタマンションもすぐ傍にありました。)手持ちの具合で引越しを余儀なくされ、私はイーストリバーの近くにアパートを移したのです。そこが、どんな街かと言うと、それはもう、映画のシーンに出てくるような所でした。安全と言う意味で夜の一人歩きは絶対にできません。どこから狙われているかわからないような街です。事実、時々、殺人事件が起きます。廃墟のビルが多く在りましたが、ホームレスすら拠りつかない雰囲気があるのです。

当時、ニューヨークの芸術家の溜り場は”ソーホー”という地域であると言われていましたが、現実的には、もともと倉庫の多かったその場所もアパート代の高騰で棲めなくなっていました。そこで彼らは、拠点を”ソーホー”のとなりのイーストビレッジに移し始めていました。私の新しいアパートはそんな所に在りました。

次回はそこに棲む人たちのことなど、少し書かせて頂きます。

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2005年9月 7日 (水)

イノセントハウス その2

その1からの続きです。イノセントハウスと名付けるに至る物語です。

今から20年前、私はニューヨークに暮らしていました。暮らしていたと言うと、それなりに聞こえますが実体としては、そんな生活感などは伴わないほとんどが毎日が遊びの日々だったのです。私がニューヨークに行くことになったのには、何か特別な理由があったわけではありません。ただ私はそれまでに続けていたことに一つのピリオドを打っただけでした。

当時、私は学生時代から演劇なるものをかじり始め、京都にいたものですから撮影所の助監督の使い走りや大部屋俳優の末席に加えてもらっていました。テレビや映画にも少しのセリフをもらい出ていました。そして、その麻薬的な世界にどっぷりと漬かり込み、次のステップとして東京の劇団の研究生として上京したのでした。ふと気づくと数年の月日が流れていました。当然、いろんな事がありましたが突然、芝居との距離をおきたくなったのです。と、言うと格好よく聞こえますが、結局、逃げ出したかったのです。とにかく、知っている人がいない所へ行きたいと言う気持ちで、僅かばかりの土地勘のあるニューヨークへ向かいました。

そこでの生活がその後の自分の価値観に大きな影響、歪み?をもたらす事になりますが、次回、その3でお伝えしたいと思います。

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2005年9月 4日 (日)

イノセントハウスとは その1

イノセントハウスとは、どんな意味?聞かれると、愉快な、または楽しい人が集う所と答えています。そんな場所を創りたいと思っています。多くの人に参加して頂き、自分なりの”感動”を、時には発信したいと願っています。それと共に、私的には、イノセントとは”愚か者”と言う意味合いも強くあります。自嘲的ではありますが、そんな所に”真実”は在るかもとも考えます。

こう考えるのは、私が純粋なもの以上に屈折したものに魅力を感じるアマノジャクだからかもしれません。また、イノセントハウスと付けたいわれは他にもあります。これを次回から少しノンフィクションでお伝えしたいと思います。

ブログ初心者のページを見て頂いた皆様、ありがとうございました。今後、少しでも皆さんに興味を持ってもらえるものが発信できたらいいな、と。よろしくお願いします。

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